されど汝は踊らでやまず

Ich möchte schlafen, aber du mußt tanzen.

100年前のその後

ドイツ俘虜たちと秋さんのその後。
 
本作は、ドイツ俘虜とその後の秋さんの子孫たちとの関係について
あまり明示的に示していません。
それは、語り手が仲間に裏切られた霊魂マイズナー(錯乱気味)で、
読者に限られた情報しか提供できないからです。
(文字にしてみると、信頼できなさすぎる語り手でかわいそう…笑)

もっとも回想シーンは、巧みにマイズナー氏の視界からさまよい出ていますし、
(漫画という表現方法の強みですね)
あおいちゃんも断片的ながら情報を持っていますので、
それらをつなぎ合わせれば、ある程度のことがわかる仕組みです。
とりあえず作中から読み取れることを整理した上で、
さらに想像できることがあるか考えてみたいと思います。

読み取れること


シュヴァンシュタイガー大尉があおいちゃんの実父であること、
秋さんとの関係は不倫ではあるが、妻との関係はもとより冷え切っていたこと、
その立場、母国への愛(noblesse oblige的なもの?)が
彼に秋さん・あおいちゃんと共に暮す選択肢を与えなかったこと、
しかし何度か秋さんには連絡していたこと…

そして、彼がヒトラー暗殺を決意したことをうけて、
秋さんはドイツに渡ったこと。
そこまではさして考えずとも理解できます。
 
ここから、まずは一歩想像して、断片と断片をつないでましょう。
秋さんはドイツ渡航にマイズナーさんの国籍を利用した上、黙って消えたのですからこれは二重にマイズナーさんを裏切っています。
こんな、マイズナーさんを騙すような振る舞いに及んだのはなぜなのか。
いえ、そうではないはずです。かつて、「なぜ女は…無言のうちに
何もかも覚らなければならないのでしょう……!」(4巻18話)
と静かに激していた彼女です。
秋さんなら、事情をマイズナーさんに説明しようとしたのではないでしょうか。
しかし対面で言う選択肢はなかったと思います、
「おひとよしの通訳」(2巻13話)に渡航を阻まれてしまうでしょうから。
だからきっと、彼女は手紙という方法を選んだのではないでしょうか。

しかしその、心づくしも今や藪の中です。
事態を受け入れるには幼すぎたけれども、
理解できてしまう程度には大きくなっていたあおいちゃんが、
秋さんの「義父にあてたぶあつい手紙」(5巻32話)を燃やしてしまいました。
ここから秋さん、マイズナーさん、あおいちゃんの3人はすべてすれ違います。
そしてその罪悪感に苦しむあおいちゃんをアキが誤解して、現在に至ると。

想像できること


問題は、ドイツに渡った秋さんの行動です。
しとやかな彼女が大尉に手を広げていたのは、何だったのでしょう。
大尉に見せた小さな写真には、肩上げをして人形を抱く少女。
あおいちゃんの写真です。
なぜその写真を秋さんは、厳しい眼差しで差し出したのか。
そんな大切な娘を、どうして突然置き去りにしたのか。
……なぜ、それきり帰ってこなかったのか。

初読のときは、正直にいうとよくわからずにいました。
わたしは最初、今生の別れをするために、
死にゆく昔の恋人に会うために渡欧したのだと思っていたのです。
(嫉妬する語り手マイズナーさんの影響もあったかもしれません。)

しかし、想像するに、秋さんは大尉の暗殺を止めようとしたのではないでしょうか。
秋さんは諦めていなかったのではないでしょうか。
フッペさんの死に対する秋さんの態度を思い返すと、そんな気がします。
秋さんには、人の生き死にに際しては、
どんな人に対しても悼み、
どんな人のことも救うべく動くような気がするのです。

そう考えれば、秋さんがあおいちゃんの写真を見せていたのも、
精いっぱい手を広げていたのも、
大尉を止めるための行動のように思えます。
しかしきっと、大尉は実行・失敗してしまうのでしょうし、
秋さんも、無事では済まなかったのでしょう。
いかにマイズナーさんという保険をかけていたとはいえ、
あおいちゃんを1人日本に捨て置きたいとは
けして思わなかったでしょうから…

秋さんのこと


会いたくて会いに行くような心の人だったなら、
自分の想い人でもなかった人を悼んで、
最後の演芸会を拒むようなことはしないでしょう。
その後、汚名にじっと耐えもしないでしょうし、
マイズナーさんの好意にも喜んで甘えるでしょう。
しかし秋さんは、愛娘のためにすら、
その道を選ばなかった人なのです。
そして必要となれば、マイズナーさんを傷つけてでも計画を決行する覚悟の人。

秋さんが選んだのが大尉だったのが、わたしにはよくわかる気がします。
覚悟の人だったのは大尉も同じでした。

その秋さんの厳しさは、
あおいちゃんに苦しみをもたらしたかもしれませんが、
一方であおいちゃんの目には、美しくも映っていたのではないかと思います。
矛盾しているようですが、秋さんの与えた苦しみが、
偏見にさらされる苦しい日々の中の、
よすがのような誇りであったかもしれません。
その母がドイツ兵との手紙を残していったことを、
どうしても受け入れられなかったあおいちゃんの気持ちも、
ここにきてようやくわかる気がします。

秋さんの表情は、
まるきり時代を反映していたような感じがします。
つかの間の平和には微笑みを、
戦禍の迫る時代には憂いを。
彼女のような人が戦争に翻弄されてしまったこと、
おそらく最善を尽くしたであろうに、
そうなってしまったこと、
くやしい、としか言えません。
 
秋さんは、不遇にじっと耐える強さと、
必要となれば国外までも飛び出していける強さとを
兼ね備えていたのだと思うと、
なんだかアキとアンを2で割ったような感じですね。

秋さんのおそらく辿ったであろう最後が
あまり悲しくて、
あの優しく、賢く、すべてを持っていた人が、
よりによってそんなふうに損なわれてしまったことが、
辛くて仕方ありませんし、
それであおいちゃんの人生が狂ってしまったことも悲しい。
 
その呪いがひ孫のアキにまで至ったことにも、
個人を翻弄する2つの時間ー
横にみれば共時的な出来事(秋さんにとっての戦争など)、
縦にみれば通時的に伝わっていくもの(アキが捉われたあおいちゃんの過去など)
のおそろしさを思いますし、
それに耐え抜いたあおいちゃんに拍手、
それを断ち切ったアンにありがとう!
の気持ちですね。

マイズナーさんのこと


さて、秋さんに裏切られ(たと思い)
孤独を選んでしまったマイズナーさんは、
そうした事情を何も知ることができなかったでしょう。
かつて心を通わせた人たちが命を懸けているのをよそに、
ずっと商社勤めの、戦争の外にいた。
収容所の延長の暮らしをずっとしてしまいました。

しかし、秋さんが自分と大尉が選んだ険しい道ではなく、
マイズナーさんのもとにあおいちゃんを託したのは、
秋さんの立場から与えることのできる、
あおいちゃんへの最大の愛情だったのでしょうね。
それが愛情だからこそ、あおいちゃんには酷くて、
もうこの世そのものが辛くなりますが…
 

ついでに少し、ifの話をしてみます。
マイズナーさんが結婚詐欺にひっかかったとき、

彼は大尉のことが気にかかって徳島に向かっていたのですから、
秋さんと大きなところでは同じ方向を向いていました。
となると、もしかして、手紙があればマイズナーさんは
周りのことを許せたでしょうか?

 

いえ、それにしたって結局、マイズナーさんには意味のないことだったのではないかと思います。
大尉はプロイセン貴族であること、マイズナーさんは民間人であることを
それぞれ望んで選んでいたのですから、

そして秋さんは、マイズナーさんと共に生きることを選ばなかったのですから、

折り合うことは土台無理だったような気がします。
それが悪いという話でも、誰が悪いということでもなく。
ただ、身分関わりなくまじわった収容所が、夢の場所だったのですね。

あるいは、もし、どうしても彼らがすれ違ってしまうものだったなら、そのすれ違いが手紙の消失という事故に帰せられたことは、この上ない神様の優しさだったのかもしれない、とも思います。

【追記】
読み返していて思い出したのですが、
マイズナーさんのファーストネームは「ジャン」でした。
そうしたらなおさら、上のようなことになると思います…
わたしが言ってることがよくわからない方は、
『アンの世界地図』2巻のあとがきまんがをご覧ください!


最後に、ゾルゲルのこと


さて、なにも知らなかったマイズナーさんのことを考えても
せつなくむなしく、悲しいのですが、
知ってしまう身もどんなにか苦しかっただろうと思います。
その後、ゾルゲルはどうしたのでしょうか。
彼の仕事はまさに知ることであったでしょう。

演劇を好んでいた彼は、人を酔わせる術を知っています。
虚構を生きることが一つの生き延びる知恵であることを知っています。
ならば、想像ですが、きっと千年帝国の幻想には酔えなかったでしょう。
手口も実態も、それを必要とした国民の痛々しい現実も、
ファシズムを生んだ皮肉すぎるメカニズムも、彼には見えすぎたでしょうから。

3巻でゾルゲルはすでに、
「今はただ、新しいドイツの幻想が善きものであることを祈る」といっていました。
幻想の必要性も、母国の苦しい状況もわかった上で、
「善きもの」を祈る気持ちとは、きっと、
「悪しきもの」が生まれてしまう懸念の裏返しだったのではないかと思います。

悲しいかな、はたして生まれた悪しき幻想に、
彼はどのような態度を取ったのでしょうか。
これも想像ですが、賢い彼のこと、きっと自分を守る程度の適切な距離を、
心身ともに保つことができたのではないかと思いますが…
その賢さが、苦しい時もあったのではないかと思います。
大尉の暗殺失敗の報は届いたでしょうか。
もし知ったなら、どんな思いでいたでしょうか。

アンの世界地図という作品は最低限の数の人が
最大限の作中での役割を担っている感じの漫画で、
あまり無駄がないのにほれぼれしてしまうのですが…(演劇ならみんな1人で三役くらいはやってますね)
他の人たちがなにかしら、他の人物と共通する要素を少しずつ持ち、
みんなで主題を変奏しているのに対し、
ゾルゲルはあまり完璧にキーワードを網羅しているもので、
人物としては誰かと重なる感じがしないのです。
神さま的な、誰とも重なる感じ。

もちろん、だからだめと言いたいわけではないのです。
その孤独はゾルゲルさんの能力の高さが
どうしてももたらしてしまうものでしょう。
(そういうところを地味に看破している悪霊マイズナーさん、すきよ)
ただ、そんな彼だからこそ、まだまだいっぱいみせてくれる物語が
あったような気がするのです。

全部お見通しすぎて、サスペンスの語り手には不向きな彼ですが、
やっぱりゾルゲルさんの話は、もっと聞きたかったなぁ。
『アンの世界地図』はあまり引き際が潔く美しくてですね、
全5巻ってかっこいいなぁと思う一方、
もっと!もっと欲どおしい読者もおりましたよ!という気持ちです。
番外編・続編期待したいですね。