されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

100年前のその後――言葉を残せなかった母親たち

※【2020.8.24再投稿】
※『アンの世界地図~It's a small world~』の最終話までの内容に触れています。必要以上のネタバレはしていませんが、未読の方はお気をつけ下さい。ドイツ俘虜たちと秋さんのその後の話です。
もとは2018年の3月に書いていた記事です。今自分が恥ずかしくない程度に修正した結果、字数が3倍になり、着地点が変わりました。2年の中に、私も変わったのだと思います。
 

それでは中身です!

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漫画『アンの世界地図』は21世紀の徳島を舞台とするが、中盤異色の展開を辿る。3巻において、主人公アンは不思議な空間に迷い込み、金髪碧眼の男性に出会う。彼は名前をジャン・マイズナーといい、19世紀末に生まれて第一次世界大戦で日本軍の捕虜となっていた。つまり幽霊の類である。

マイズナーさんと、彼とともに徳島の俘虜収容所に収容された将校・兵士たちは、収容所の方針もあって地元徳島の人々とも親交をもった。そうして美しい少女、秋に出会い、あたたかな交流を深めていくのだが、第一次世界大戦終結ドイツ帝国滅亡により、かれらは散り散りになっていく。

三年後、マイズナーさんが秋さんを訪ねたとき、彼女は混血児の母となっていた。現代にもまして婚外子への差別が激しかった時代である(しかも父親の認知を受けていないはずなので「私生児」)。しかも第一次世界大戦中の敵国の人の血を引く子となれば、秋さん母子の苦労は想像を絶する。

マイズナーさんは彼女を捨ておいたかつての仲間に憤慨し、せめて自分が償わせてほしいと結婚を申し込むが、秋さんは取り合わない。そして1933年、唐突に彼女は失踪したのだった。マイズナーさんと、娘のあおいちゃんを置き去りにして。

 

語りの仕組み

本作は、その後のドイツ俘虜と秋さんの運命について、あまり明示的に示していない。それは、語り手であるマイズナーさんの魂が、読者に限られた情報しか提供できないからなのだろう。
マイズナーさんは、第一次世界大戦終結後も日本に留まった。その上仲間に欺かれた、裏切られたと思っている彼は、ドイツ俘虜たちとはそれきり連絡をとっていない。秋さんとも、彼女の行動の真意を知ることができないままに生き別れてしまった。彼が妄執にとらわれていることは、朽ちていくはずの肉体をよそに、現世にとどまっていることからも明らかだ。
マイズナーさんは、限られた情報しか持っていない、怨恨を抱いて人間不信にとらわれている、そもそも生きた人間ではない――いわゆる、「信頼できない語り手(Unreliable narrator)である。語っている内容や態度を、鵜呑みにできない語り手のことだ。
「信頼できない語り手」という文学研究の用語は、50年以上前に提唱されて以来、概念規定の修正や細分化がはかられてきた*1
現代でも「信頼できない語り手」という視点は、「語り手」という存在の機能を可視化するためには、有効な手がかりとなる。
 
 

マイズナーという語り手

さてその「信頼できない語り手」を大きく分けると、作中の聞き手(本作の場合アン)にとって信頼できない場合と、読者(本作の場合わたし)にとって信頼できない場合とがある。
『アンの世界地図』では両方だ。読者のわたしも、マイズナーさんが語り得たことの範囲の限界に気を配る必要がある。またアンの方も、マイズナーさんの目線でみた物事と、別人からみた物事のずれにのちのち気づき、衝撃を受けることになる(4巻28話)。
 
アンがそのずれに気づいたのは、老いたあおいちゃんと会話していたときだ。
マイズナーさんは秋さんの物語の傍観者だった。傍観者としてアンに語った。だがマイズナーさんが秋さんを見つめているさまを、さらに別の視点から見ていたのがあおいちゃんだったのである。
4・5巻において、あおいちゃんは少しずつ当時のことに言及するから、彼女ももう一人の語り手といえるかもしれない。だが当時、あおいちゃんはまだ幼かった。知り得たことは断片的であろうし、秋さんとマイズナーさんに対する、苦しい思いを抱えてもいた。彼女の語りも「信頼できる」わけではない。
 
ただここで、気をつけないといけないことがある。「語り手」というのは文学研究において深められてきた概念だが、本作は漫画であり、視点の取り扱い方が文芸とは違う。
もし小説で、語り手がころころと変わったり、途中から二人称から三人称に変わっていたりしたら、いかにもこなれていない印象になってしまうだろう。しかし漫画や映画のような視覚を活用する時間芸術は、視点のゆらぎを作りやすい。
事実、本作の回想シーンは、実は巧みにマイズナーさんの視界からさまよい出ている。たとえばフッペと秋のやり取り、フッペとシュヴァンシュタイガー大尉のやり取りなどは、本来マイズナーさんが目撃できたはずのない出来事だ。つまりこれは読者のみが目撃したものであって、アンがマイズナーさんに聞いたことではないのだろう。
またたとえば、フッペの死のいきさつも、おそらくマイズナーさんは知らずにおわった。
 

『アンの世界地図』の語り手小括

つまり、100年前に徳島で起きた一連の出来事の描写は、実は三種類ある。
一つはマイズナーさんが語ったこと(①)。そこには彼の主観や観察範囲の限界が反映されているはずである。秋さんの物語というよりも、むしろマイズナーさんがどのように思い、世界を見つめていたのかをうかがえる場面といった方がよいかもしれない。
もう一つはマイズナーさんには語り得なかったこと(②)。いわゆる「神の視点」、絶対的な第三者の目線から描かれているのだろうから、事実そのものであると捉えてよいだろう。
そして第三には、あおいちゃんによって後から語り直された、断片的な情報(③)。ここにもまたあおいちゃんの主観とバイアスが反映されている。
つまり三巻以降の読者は、①②が混在する第二巻を土台に、あおいちゃんによる語り直しを受け入れながらよみ進んでゆく。
 
 

語られた人

さて、その①②③が語る物語の核にいたのは、常に秋さんである。しかし彼女が語り手に回ったことは一度もない。
本作の中で、秋さんはただ見つめられる存在だった。彼女自身の視点から物事が描かれることはついぞなかったし、言葉数も少なかった。
ただし、それでは彼女が何も思わず、何も考えず、何も行動しなかったかと言えば、もちろんそんなことはなかった。①②③の他人の目から見た語りの中にも、秋さんという一人の人間の姿はたしかに現れていた。だから、本作を読み進めていくことは、歴史の沈黙の中から一人の勇敢な女性の人生をすくいあげていくことでもあるのだと思う。
 
無論、語り手という理論など導入してこなくとも、本作はちゃんと理解できる。こんな長々と考える必要などないといえばなかった。
ただ私は、せめて自分にできることとして、秋さんが自分の人生の語り手になれなかったということを、慎重に、意識していたいと思った。その結果がこの胡乱な前置きである。
 


読み取れること――あおいちゃんの実父

ここまで整理してきた語りの中から、読み取れることは何だろうか。

まず、未婚のまま母となった秋さんは、「自業自得」だと語る(3巻19話)。あおいちゃんを妊娠したのは、合意の上でのことだった可能性が高いだろう。惑乱したマイズナーさんの亡霊はゾルゲル、フッペ、大尉の三人の名をあおいちゃんの実父候補としてあげたが、秋さんとの一対一の関係が描かれていないゾルゲルはまず除外される。人の良いマイズナーさんの、心の底に押し込められた敬意とねたましさが、彼の名前を挙げさせたのだろう。

手紙をやり取りし、継続して彼女の家と交流していたのは残る二人と通訳のマイズナーさんだ(ともに3巻15話)。とはいえドイツ俘虜たちが日本語を身につけてゆくにつれ、秋さんのやり取りがマイズナーさんの視界外で行われることも多くなったから、彼も疑心暗鬼に陥るわけである。
 
フッペと秋さんの関係はどうだったか。二人の間に何があったのかも、フッペの訃報を知ったとき、秋さんが最初にどんな反応を示したのかも、作中では直接描かれない。筆者には、それはただ描かれていないのではなく、意識的に省筆されている部分のように見える。あまりここで詳細を明かしてしまっては、作品を読む醍醐味を減じてしまうように思うので引用しない(それは筆者がこのブログを始めた動機の対極にある)が、一応根拠があって思うことだ。
秋さんとフッペの間に恋愛、またはそれに類する関係はあったのか、なかったのか。描写の沈黙はどちらにも捉えられるもので、悩ましい。
 
ただ、秋さんはフッペのことを既婚者だと思っていた(3巻15話)。諸々の描写はあえて引用しないが、私には、秋さんが彼に思いを寄せていたようには思われない。 
またフッペの方も、もし秋さんとの関係が恋愛またはそれに類するものであったのならば、あのような死に方はしないように思う。彼は「昔から女は勝った男のものになるって決まってんだよ!!!負けた男には何も言う権利はねえ!!!」とシュヴァンシュタイガー大尉に言い放っていた(3巻17話)。
そう言った彼自身が生きる道を選ぶことができなかったのは、彼をしがらみとどめる係累がどこにも……親兄弟も、恋人も、「ドイツ帝国アルザス」という故郷も、この世にはなくなってしまったからだろう。
フッペはまさしく「コロコロ変わる外交上の話」(2巻14話)に振り回された人だった。ドイツ人俘虜収容所の松江所長はそれを「庶民はいちいち気にしなくてよろしい」と言ったが、気にしなくてはならなかった庶民が、フッペだった。わずかな一言の中に松江所長の見識が光り、フッペの苦しみが切に響く。
 
一方秋さんがシュヴァンシュタイガー大尉に好意を寄せていたことは、3巻17話でフッペの口から明かされる。フッペはその出自から、自分が考え感じていることを、誤解のない形で表現する術をあまり身に着けていない(そのことをよく理解しているゾルゲル博士とは親しく付き合えている)。フッペの発言を額面通りに受け取ってはいけないのだが、この点については、フッペが嘘を言う理由の方がなさそうだ。きっと秋さんが、フッペにそう伝えて断ったのだろう。しかし、彼女は大尉と直接話しているときには、微塵も態度に出さなかった。ただ一度だけ……大尉に薬の礼を述べたときを除いて。
その時の、彼女が座っていた位置を確かめると、たしかに「自業自得」という意味が理解できるように思う。
 
 
シュヴァンシュタイガー大尉から秋さんへの思いについても、直接的な描写はない。ただ、敗戦の失意に重ねてスペイン風邪に冒されたとき、危篤の秋さんに、迷うことなく自らの薬を分けた。回復した彼は「日本人の在地妻」(3巻18話)の話に少し視線を動かした後、秋を訪ねていった。
その日の夜、大尉はマイズナーに出くわす。「…ドイツの男は一人ひとりがドイツの復興に加わるべきだろう」と言う大尉と、「そうは言っても愛するひとがいる時は話は別ですよ!」というマイズナーの間には、プロイセン貴族として生まれた士官と、「ジャン」という名を持つ商社勤めのザクセン人の違いがよく現れている。静かにマイズナーとの会話を打ち切った大尉の心中は、一体どんなに引き裂かれていただろうか。
 
大尉はプロイセン貴族として、ドイツ帝国の遺臣として、祖国に帰って復興に尽力しなくてはならなかった。もとより冷え切った仲とはいえ、妻もいた。
大尉には、秋さんと暮らすことはできなかった。
日本を去る大尉の言葉を聞いていた秋さんには、そのことがよくわかっていたのだろう。秋さんがあおいちゃんのことを伝えていたかどうかは定かではない。敗戦後、初めて秋さんのもとを訪れたマイズナーさんは「そのひとはあの子の存在を知りながら秋さんを放っているのですか?」(3巻19話)と尋ねるが、秋さんは返答しなかった。
 
 
かくして読者は、秋さんは娘を捨てて、マイズナーさんを騙してドイツの恋人のもとへ向かってしまったのだろう、その相手はおそらく大尉なのだろう、と思う。それならなぜ最初に求婚されたときにそうしなかったのか、少し訝りながら。
そして読み進めていくうちにアキの言葉を受けて、いや本当はあおいちゃんがマイズナーさんに言ったことは嘘で、あおいちゃんは秋さんのことを殺してしまったのかもしれないと思う。しかしローティーンの子どもがそんなことをできるだろうか、マイズナーさん相手に隠し抜けるものだろうか……やはり疑問をいだきながら読み進めてゆき、大団円ののちに最終話にいたる。
 

そこで初めて、読者は秋さんが姿をくらますきっかけとなったやり取りの場面の意味を知る。そのときの秋さんの手元には文箱と、封蝋の押された何通かの手紙があった(3巻19話)

つまり秋さんはヒトラー暗殺を決意した大尉に会うため、ドイツに渡航したのだ。 

 

ここまでが、描写から順当に読み取れることだろうと思う。 

 

 

想像できること――秋さんのその後   

ここからのことは、ただ私の想像による部分だ。
私の想像がどれほど妥当なものか自信があるわけではないが、冒頭に述べた通り、自分で自分の人生を語ることのなかった秋さんの声を、私は聞き漏らしたくなかった。想像に頼ってでも、彼女が残したものを辿りたかった。
 
まず秋さんはドイツ渡航時にマイズナーさんの国籍を利用した上、黙って姿をくらませた。これは二重にマイズナーさんを裏切る行為であり、結婚詐欺と言ってもよい。
秋さんという女性は、そんなことをする女性だっただろうか?私にはどうしてもそうは思えない。
かつて、彼女は「なぜ女は…無言のうちに何もかも覚らなければならないのでしょう……!」(4巻18話)と静かに激していた。その秋さんなのだから、きっと事情をマイズナーさんに説明しようとしたのではないだろうか。
しかし対面で言う選択肢はなかっただろう、本当のことをありのままに伝えては、「おひとよしの通訳」(2巻13話)はなんとしても渡航を阻んだだろうから。
だからきっと、彼女は手紙という方法を選んだのだろう。ことの重大性からして、文書という残る形で意志を伝えることを望んだという側面もあったかもしれない。
ドイツ渡航のためには他にも手段があったかもしれない中、結婚詐欺のような真似をしたのも、きっとあおいちゃんに自分以外の家族を残すためだ。手紙の中で、秋さんはあおいちゃんのことを頼んでいたのではないかと思う。

しかしその、心づくしも今や藪の中である。
事態を受け入れるには幼すぎたけれども、理解できてしまう程度には大きくなっていたあおいちゃんが、秋さんの「義父にあてたぶあつい手紙」(5巻32話)を燃やしてしまった。
ここから秋さん、マイズナーさん、あおいちゃんの3人はすべてすれ違ってゆく。そしてその罪悪感に苦しむあおいちゃんをアキが誤解して、現代に至ったのだ。
 
 
ドイツに渡った後の秋さんについても、もう少し想像してみたい。
少女時代からおっとりとしていた彼女は、大人になってますますしとやかだった。その彼女が大尉の前でめいっぱい手を広げていたのは、何だったのだろうか。
それから秋さんは大尉に小さな写真を見せていた。肩上げをしたきものを着て、人形を抱く少女、あおいちゃんの写真である。
しかしその写真を差し出す秋さんの眼差しは、どうしてあんなにも厳しかったのか。写真を見せるくらいならば、どうしてその娘を突然置き去りにしたのか。
……なぜ、それきり帰ってこなかったのか。

初読のときは、正直にいうとよくわからずにいた。
私は最初、今生の別れをするために、死を覚悟した昔の恋人に会うために渡欧したのだと思っていた(もしかしたら嫉妬する語り手、マイズナーさんの影響を受けていたのかもしれない)。
しかし、会いたくて会いに行くような心の人だったなら、自分の想い人でもなかった人を悼んで、最後の演芸会を拒むようなことはしなかっただろう。その後も日本に留まって、一人で汚名に耐えることもしなかっただろう。
 
そう考えたとき、大尉の前で懸命に手を広げていた仕草が不意に腑に落ちた。あれは、暗殺に向かう大尉を止めようとしていたのではないだろうか。
自分たち母子への支援を請うようなことはしていなかっただろう秋さんが、あおいちゃんの写真を見せていたのも、大尉を止めるためだったのではないだろうか。あの眼差しは厳しかったのではなくて必死だったのだ。
しかしきっと、大尉は実行・失敗してしまうのだろうし、秋さんも、無事では済まなかったのだろう。

マイズナーさんという保険をかけていたとはいえ、あおいちゃんを1人日本に捨て置きたいとはけして思わなかっただろうから…
 
 

あおいちゃんと秋さん

あおいちゃんの誕生を知ったマイズナーさんは結婚を申し出た(3巻19話)。あおいちゃんの将来を考えるならば、その申し出はありがたかったはずだ。

秋さんの反応を見ると、少しは心が動いたように見える。しかしマイズナーさんが「償わせてください」と続けたとき、瞳はすっと冷え込んだ――主観的な物言いだけれども、私にはそう思えた。
 
我が子のことを思うならば、そこで結婚しておくのが一番だっただろう。あおいちゃんはドイツ人の「とうたん」が「おむかえ」にくる日を楽しみにしていた。その上、近所の子どもたちから心無い言葉を投げつけられていた。本作の中でも印象的に描かれている通り、子どもはまわりの大人の言葉を聞いて言葉を覚えるのだから、その眼差しはきっと子どもたちからのみ向けられたわけではない。
マイズナーさんとあおいちゃんの初めての出会いは、彼女の年の頃からして1922~23年頃の出来事である。大尉はもともとの境遇からしてドイツを離れる可能性のまずない人だった。まして、ヴァイマル共和政下のドイツがまだまだ不安定だった頃となれば、秋さんを妻に迎える可能性は、相当低かっただろう。
 
しかし秋さんはそうはしなかった。「償わ」れることを拒んだ彼女の矜持は美しいが、その覚悟はあおいちゃんにも忍従を強いた。そして後には、マイズナーさんを傷つけてでも計画を決行した。
こう言ってしまうとマイズナーさんは不服かもしれないが、秋さんが彼ではなく大尉を選んだのが、私にはよくわかる気がする。秋さんも大尉も、誇り高い覚悟の人だった。
本当はそんな覚悟に生きられるような人ではなくて、捕虜となっても、ドイツが敗れてもふさぎ込む繊細な人だった。帰国の折には将官の身でありながら自ら船倉に降り、貧しい子どもたちにパンを投げ、泣き崩れた。
そんな柔らかいところを抱える人だからこそ、人一倍の覚悟が必要だったのだろうと思う。私は、フッペの死を知らせてもらえなかったときの秋さんの毅然とした態度と、ドイツ敗戦を知ったときのやさしい涙を思い出す。


その秋さんの厳しさは、きっとあおいちゃんに苦しみをもたらしただろう。しかし、私の勝手な想像だが、あおいちゃんの目には、美しくも映っていたのではないかと思う。
矛盾しているようだが、秋さんの与えた苦しみが、偏見にさらされる苦しい日々の中の、よすがのような誇りであったかもしれないと思うのだ。
その母がドイツ兵との手紙を残していったことを、どうしても受け入れられなかったあおいちゃんの気持ちも、わかる気がする。
 

秋さんの表情は、まるきり時代を反映していたように思う。つかの間の平和には微笑みを、ファシズムの迫る時代には憂いを。
彼女のような人が戦争に翻弄されてしまったこと、おそらく最善を尽くしたであろうにそうなってしまったことが悔しかった。
秋さんの辿ったであろう最後があまり悲しくて、あの優しく、賢く、すべてを持っていた人が、よりによってそんなふうに損なわれてしまったことが、辛くて仕方なかった。マイズナーさんは「年を重ねてなおいっそうに美しくなるひとでした」と言ったが(3巻19話)、私はどうしても、秋さんの笑顔が恋しかった。
 
 

言葉を残せなかった母親たち

この記事の土台となる感想を書いたのは、2018年のことだった。あれから二年しかたっていないのが信じられないくらいに、色々あった。
思い返せば、2018年にこんな記事を書く気力があったことのほうが信じられないし、「あれから二年しかたっていないのが信じられない」と思うことができた自分にも驚いている――この数年間、わたしはとうてい時間のスピードに追いつけなかった。暗闇から抜け出しかけて振り返ってみると、『アンの世界地図』という作品がどれほど私のともしびとなっていたのか、よくわかる。
 
 
2020年の私は、2年前の私と同じ人間だ。だが抱く感想は少し違ってきているらしい。特に秋さんに対する印象は、大きく変わった。
私が読んできた範囲の中で、秋さんは、一度もあおいちゃんに笑顔を見せなかった。アキがアンに何度も何度も言ってあげていた「かわいい」という言葉を与えなかった。娘の目の前で、彼女のことを「哀れに思います」と言った(3巻19話)。
それは読者が見ることのできた秋さんの物語が、ごく限られた一部でしかないからだとわかっている。百年後の社会に生きるアキと同列に比べてはいけないのだとわかっているし、あおいちゃんが大切だからこそ、きっとマイズナーさんと結婚したのだろうとわかっている。
しかし、秋さんの行いがあおいちゃんには少し酷だったのは、確かだろう。
この作品のすべてを語るようなアンの力強いせりふに、「おかあさんもおとうさんも家族も……恋人かどうか……もそれをやりぬくと決めるかどうか…それだけです!」(5巻最終話)というものがある。このとき、アンのせりふの背後にうつるたくさんの人々の中に、大尉と秋さんの姿があった。私はこれを見たとき、この二人は恋人であることをやりぬいたのであって、あおいちゃんの父や母にはならなかったのだと思った。大尉は「ドイツの父」であり、あおいちゃんの父ではなかったのだから。しかしそうはいっても、実際に秋さんは母であり、あおいちゃんを育てたのだ。秋さんは、読めば読むほど複雑な人だと思う。
 
今回読み返して一番驚いたのは、秋さんと、アンの実母が少し重なったことだった。
秋さんはあおいちゃんに自分のことを語ることができなかった。それだけではない。秋さんが受け取った手紙は残ったが、秋さんがドイツ俘虜に送った手紙は、おそらく何一つ残らなかった。秋さんは、自分の言葉を残すことができなかった。
アンの実母も、本作の中でほとんど言葉を残せなかった。娘に残せたのは呪いのような言葉ばかりだ。彼女の人生は一体どんなだったのだろう。アンと離れて、新しい生き方を見つけられただろうか。人を愛する言葉を、話せるようになっているだろうか。
 
アンの実母は娘のことを虐待していたのだから、秋さんとは当然同じではない。娘に言葉を残せなかった経緯もまるで違う。
しかしアンの実母だって、アンがあんなに大きくなるまで育てたのだ。アンがどのくらい学校に行かせてもらえていたのか、どのくらい世話をしてもらえていたのかはわからなない。しかし、ネオテニーと言われることもある人間の子どもは、親に見放されたらすぐ死んでしまう。アンの実母は、アンが死なない程度には育てた。それはあの家庭では、全然簡単なことではなかったはずだ。彼女は、距離感からして親戚、おそらくは夫であろう人の遺体を前にして、「死んだ人間はなにも怖くない」と娘に語り残した、「この世でいちばん怖いのは生きている人間だ」だと(2巻13話)。
アンの実母は、たしかにうまくアンを愛せなかったのだろう。だがきっと、それで平気なわけではなかった。彼女はアンに与えるべき言葉を与えなかったが、それは与える能力があったのにわざと与えなかったというわけではなかっただろうと思う。きっと、与えることそのものができなかったのだ。
 
 
秋さんの言葉がどれくらいあおいちゃんに伝わったのかはわからないけれど、5巻32話であおいちゃんは、「大嫌い」が「大好き」だったことに気がついた。あおいちゃんの生涯はきっと苦しみ多いものだったけれど、最後までそうだったわけではなかった。
今のわたしは、アンの実母も、いつか苦しみから解放されるようにと願っている。
 
 

*1:

そもそも考えてみれば、すべての語り手は信頼できない。それぞれの立場から物事を見て語る以上、その人の主観や見聞、語彙の範囲に制限を受けるのは当然のことだ。
むしろ、それがないのならば、語り手など設定せずに三人称の神の視点から語ったほうがよい。結局程度の問題であり、「自閉症スペクトラム」ならぬ「信頼できない語り手スペクトラム」のように捉えたほうがよいような気がする。