されど汝は踊らでやまず

Ich möchte schlafen, aber du mußt tanzen.

これから生きてゆくすべを(『名探偵コナン』雑感)

これからの日本で生きていくすべを、本気で考えないといけない気がしています。そのきっかけは『名探偵コナン』でした。

 

名探偵コナン』のこと

名探偵コナン』との出会い

わたしは、小学生のころテレビで『名探偵コナン』シリーズをみていた世代です。

正確にいえば、すごい怖がりだったんでCM前後のドアの「ギーバタン」だけで十分怖くてですね、中身はもうろくに見れていません。

その後も、特にマンガカルチャー、というよりはキャラクター文化やオタクカルチャーでしょうか、そういったものに特別惹かれることがなかったので、「『名探偵コナン』とは黒の組織との戦いおよび少年探偵団の活躍を描く物語である」「最近灰原っていう女の子がでてきたらしい」くらいの認識しか持っていませんでした。

 

しかし最近、わたしがとても信頼している方が、『名探偵コナン』のバランス感覚を褒めていらしたので興味を持ち、アプリ「サンデーうぇぶり」で読み始めてみたのです。おかげでもう灰原さんも赤井さんも誰かわかるようになりました。

 

さて読んでみると、哀ちゃんも魅力的ですが、大人になってみると、高校生で自分自身子供のはずの蘭ちゃんがあまりにもしっかりしていて、ちょっとびっくりするほど優しくて、蘭ちゃんにメロメロです。

例えば蘭ちゃんは21巻で、彼女が平次とおそろいの服を着てると思ってやきもちを焼く和葉に、単刀直入に「私のこと怒ってる?」と聞けて、しかもその答えを聞いたら黙って即着替えてみせるんですよ。

しかもその服は、蘭ちゃんの別居中のお母さんがくれた服なのです。親子のあり方はそれぞれさまざまですけども、蘭ちゃんがお母さんを大切に思っていることは作中の描写からよくわかります。そのお母さんからもらった服をめぐっていらぬ詮索をされて、腹を立てたっておかしくないのに。

(関係ないですが、『犬夜叉』のかごめちゃんも、本当にあんまりにいい子で、かつ大人で、わたしはびっくりし通しです。これも書きたい。)

 

そんな理由から、わたしは『名探偵コナン』という作品を、小さい頃よりも好きになりました。そうしたら、最近は映画がとても人気を博したそうで。

わたしは本当にお金がないので、ちょっと気になるくらいの映画を劇場にみに行けはしません(もともとパーソナルスペースが広い&長時間拘束されるのが苦手で、映画館よりも自宅でみるほうが好き、というのもありますが)。

 

ですから、みていない作品のことを語ることは当然できませんが、ただ、話題になった作品だからでしょう。作中の決めぜりふのようなものは、SNSで回ってきました。映画では安室さんが活躍するそうで、安室さんファンの女性たちの感想もたくさん見ました。

たしかにそれらをみていると、安室さんは本当にかっこよいのだろうと思いました。完璧なのにどうしようもないままならないものを抱えていて、ああこういう人は愛されちゃうし愛しちゃうよなあと思いました。

たしかに、わたしが、そう思いました。

安室さんはまだわたしの読んだ範囲に出てきていませんが、「サンデーうぇぶり」が安室さん登場巻周辺を読める特集を組んでくれたので、そこを読んだのです。

 

2018年の映画

安室さんがどんな人かわかったわたしは、ほかにも映画の感想を見て回りました。それは楽しいことでした。

しかしやはり、こっそり見るまいとしてきたものに出会うときがくるのです。閾値を超えてしまうときが。

安室さんの台詞が、エリート的愛国思想とヒロイズムを無邪気に結びつけた、素朴なかっこよさの塊であることの危うさと、そしてそれに心酔するファンたち、「安室の女」の感想に、「安室さんの守る日本に生まれてよかった」という旨のものが少なからず見えることの恐ろしさ、それらを感じている自分のことを、ついに認めざるをえなくなるときがきてしまいました。

 

いえきっと、『名探偵コナン』という作品のファンからすれば、この安室さんの造型だけをもって右よりな作品だと見なされるのは、非常に癪なことでしょう。

実際、一般人が安室さんのような言動をとっていたらかなり異様に見えるでしょうが、安室さんは公安警察という設定ですから、そのような言動をとっておかしくありません。私は、(映画をみていませんけども、聞いている範囲では)安室さんの言動をもって、『名探偵コナン』の2018年の映画が右よりの作品である、ということはできないと思います。

 

しかし、だからこそ、その安室さんが世間に引き起こした現象が、恐ろしすぎると思うのです。映画をみた人の、「安室さんの守る日本が好き」「安室さんの守る日本に生まれてよかった」というような反応は、その人の「安室さんが好き」という感情を「日本」にまで敷衍したものでしょう。

その「安室さんが好き」という感情は大変に素朴で純粋です。好きな人物が大切にしているものを大切に思うのも、自然な感情の動きです。その心の動き自体を批判するのは、実に難しいことです。

今回はその好意の延長される先が国家であることが危ういわけですが、『名探偵コナン』2018年の映画を楽しんだ人たちのすべてが常に、そうしたものに無防備なわけではないでしょう。

あくまでそれが、誰もが知っている『名探偵コナン』の映画であり、全体としては右よりの作品とみなされるような隙を残していないからこそ、安室さんへの好意を国への好意にすり替えるメカニズムに無防備でいられるのだと思います。

わたしは、そのメカニズムの巧みさと、そんな映画をみた人たちがたくさんいるという事実が、恐ろしくてたまりません。

 

もちろん安室さんは架空の人物です。そのことがわからない人はいません。

もしわたしが安室さんの影響の懸念を示したりすれば、きっと現実とフィクションの区別くらいつく、そうでなくたって公安と一般人の差があるという反応が返ってくるでしょう。

 

しかしわたしが懸念しているのはそんな論理でもって処理できることのことではありません。理屈の外にあって否定しがたく、もっと目に見えない、もっと漠然とした風潮の醸成です。安室さんの「僕の恋人はこの国さ」というせりふ、そしてそれを受けて、「日本人はみんな安室さんの恋人」というような反応をする人にみえるような、個人と国家を同一視する気分です。

実際のところ同一視というほど強くなくて、個人的な愛着を国家にまで敷衍できる気持ち、程度にいったほうがよいものでしょう。

 

それは本当に素朴な気持ちだと思います。「気分」だとか「気持ち」だとか曖昧だと思われるかもしれませんが、そういった曖昧なものだからこそ恐ろしいと思っています。「現実とフィクションは違う」という理屈とは全く別個に存在している、好意の気持ちは、そう簡単に消えはしません。

先ほどもいいましたが、公安警察の安室さんへの好意を日本という国家、あるいは漠然とした理想化された「日本」にまで敷衍するのは、作品のファンのあり方としては実に自然です。わたしには彼、彼女らを否定できませんが、心底恐れています。

安室さんの愛国ヒロイズムに酔う一般人の彼、彼女らのもつ力を。民主国家である日本において、選挙権も被選挙権も持っている彼、彼女らの素朴な気持ちが導きうる行動を。

 

わたしはその中でも、「現実とフィクションの区別くらいつく」人を一層恐れています。一つには、彼らはそういう反応を返せる自分を信頼し、自分の警戒レベルを下げてしまうのではないかと思うのです。自分は理性的に捉えられてるから大丈夫だと。

もう一つには、彼らはフィクションや感情のもつ影響力を低く見積もりすぎではないでしょうか。わたしたちが現実であると思っているものも実際には多分に作られたものですから、現実とフィクションを二項対立的に捉えること自体がすでに危ういのです。

わたしたちはすでに、フィクションや感情に染め上げられていないと現実を生きられない生き物になっています。その点に無防備な点で、「現実とフィクションの区別くらいつく人」は、「区別がつかない人」とほとんど同じくらいかそれ以上に無防備で素朴です。

 

つまりです。わたしを恐れさせているのは、実に素朴で無防備な観客たちに対して、相手はあまりにも周到である、ということなのです。

公安警察の安室さんというキャラクターをうまいこと動かすことで、「右よりの作品である」と言わせるだけの隙を与えず、ごく自然な、どうにも否定しがたい流れでもって、安室さんへの好意を「日本」という国家への好意に流し込んでいく筋書きが。

ツイッターを見ていると、わたしと同じような懸念を持っている人はちらほらいるようですが、それらの意見への反発は当然強いようです。相手の巧みさに、わたしはもうほとんど手を上げています。上げたくはないのですが、相手はわたしの到底かなう相手ではないことが明らかなのですから。

 

2018年の『名探偵コナン』の映画がこのような作品になっていった背景は、わたしには到底あずかりしることのできない領域にあります。

マンガの原作者の考えか、脚本家の考えか、それとも、目に見えるところに名前を出さない人たちの考えか。

安室さんはもはや、そうした人たちのコマとして扱われたのではないかという印象も、ないではありません――何せ、マンガ本編で描かれている彼はほとんど「喫茶ポアロの安室さん」か「黒の組織のバーボン」。危険な潜入捜査をしている人間が、同時期に「公安警察の降谷」として振る舞えるはずがないですから、本編で「公安警察の降谷」が描かれないのは当然すぎるほど当然でしょう。

その空白を、映画に利用されたのではないかとわたしなどは勘ぐってしまいます。

 

そして実際、安室さんの愛国ヒロイズムにスポットをあてたことは、ビジネスとしては大成功をもたらしたようです。V7,邦画の歴代興行収入の中でも上位に食い込んでくる実績をあげたようですね。

そのことがまた恐ろしいです。元々安室さんは、『名探偵コナン』という子供向けの(しかも子供が違法なことしまくりの)コンテンツでは活躍させにくい人物です。それでもこれだけヒットしたとなると、先々、二番手三番手の安室さんがでてくるのではないでしょうか。

 

何重にも恐ろしいと思っていたところに、RADWIMPSHINOMARUという作品を発表しました。これもまた、ボーカルの野田氏がいうには思想も何もない、素朴な気持ちからくる作品なのだそうです。

たぶんそれは、本心なのだと思います。そもそもアーティストが「思想がない」なんて全く誇れることじゃないですけども、そういったところを突っ込んでいても仕方ありません。

とにかくそうした、いっちゃ悪いですけども教養や自己をかえりみる目を持たない人の素朴な郷土愛、自己愛の類を国家への愛に流れ込ませた何かの力の強さを恐れるべきです。そうした愛が、アニメ映画であったり音楽であったりに載せられて、さらに漠然と再生産され蔓延っていくいまの現状を、わたしは強く恐れます。

 

今までももちろん、ずっと時流に対する懸念を抱えてきましたが、ついに、底が抜けた、今まで見えている気になっていたわたしの目にもう一段恐ろしい光が映った、そんな感じがしています。

というよりも、ああ、もう負けたのだというのが、正直な感想です。

今こうして漠然と世間にまかれた素朴な気持ちは、反知性主義と一緒にパッケージされて漠然と思春期の子供たちに響いていくでしょう。

そのばらまき役を担った(担わされたのかもしれませんが、とりあえずこう書いておきます)のが男女・年齢層を問わないファンを持っている『名探偵コナン』、2005年頃から活躍し、さらに2017年『君の名は』主題歌により大ヒットを記録して10代に支持層を広げたRADWIMPSであることは、話ができすぎています。

 

陰謀論めいたことを言うのは大変恥ずかしいのですが、しかし正直にいえば、わたしはそこに作為があっておかしくないような気がします。誰かが、やがてやってくる恐ろしい何かのために準備をしているような感じがします。わたしたちには何かに慣らされているのでは、何かのために都合よくトレーニングされているのではないか、と。

 

そうこうしているうちに、非戦派の天皇の退位があり、東京オリンピックがやってきてしまいます。東京オリンピックは、当初話が決まる頃には、否定的な反応が強かったように思うのですが、人はしだいしだいに慣らされていってしまう生き物です。

しばらく前には東京オリンピックでは必要になる労働力のいくばくかをボランティアによりまかなう予定だとの報道があり、それにも強い反発がありました。しかし、それにもやがて慣らされてしまうのではないか、とわたしは恐れます。

「もう決まった以上やるしかない」と、受け入れがたいことにも順応してしまう、それが現実的で理性的な対応だと思ってしまう人がいるのではないかと…(第二次世界大戦中、国家に協力した小説家などのように)。

 

そして、さらに想像するならば、東京オリンピックを通じて国の都合のために無償ではたらくことに慣らされた社会が、次にどんなことを要求されるのかを、わたしは恐れています。

我ながら、妄想めいています。しかし、『名探偵コナン』の2018年の映画に感じられた周到さからすると、愚かなわたしは、このくらい警戒していないともうだめな気がするのです。今わたしは白旗をあげていますが、白旗をあげながらもずっと諦めずにいる心の強さが必要です。

自分自身が自分自身であり続けるため=時代と自分の経年変化に応じて、適切に変わり続けていくために。

わたしは、痛みに耐えていく

さて、わたしは恐れる、恐れるばかりいってきました。人ごとのような体で。

しかし、わたしの心には恐れだけではない痛みがあるのです。わたしは先に書きましたように、「サンデーうぇぶり」などの電子書籍アプリで『名探偵コナン』を読み始め、毎日それに元気をもらっていたのです。

そのきっかけは、わたしの大変信頼している人の、『名探偵コナン』に対する感想でした。しかし実際のところ、わたしは『名探偵コナン』の、少なくとも2018年の映画にこれだけ恐怖を抱いているわけですから…

 

わたしの懸念は、『名探偵コナン』という作品を好きな自分の感情にも、またそのきっかけとなった人への信頼にも、泥を塗りました。それは、悲しいことです。それなりの動揺をわたしにもたらします。

わたしの懸念に蓋をして、『名探偵コナン』という作品を無心に楽しんでいられたら、また件の人のことを無心に信じていられたら、どんなに楽だったでしょうか。

 

でもそれはできません。わたしは『名探偵コナン』を好きなまま、その危うさを恐れていないといけません。その人への信頼、尊敬はそのままに、でもその人を見る目をけして曇らせてはいけません。

 

これから、わたしにやってくるのは、そうした時代だと思います。身の回りの人を、自分の生まれ故郷を、第一言語である日本語を心から愛しながら、警戒し続ける痛み、裏切られることを予期しながら信じ続ける苦しさに、ずっと耐えていかなくてはならない時代です。

たまには、そうやって警戒しないでいられる場所がないと持たないでしょうが…わたしには古典があります。古典の中で、わたしは時代から自由でいられます。

そこで深呼吸をして傷を癒やしたら、また同時代の、恐るべき時代の痛みにぐっと耐える、そんな日々を送るのでしょう、わたしは。

何せ、日本の古典文学を専門としているわたしは、一生日本からも日本語からも離れることはできませんから。

 

それにしたってまだ心の内で行うだけでは、恐るべき力に対して何もしていないのと同じですが、まずはそこから。

そして、実際どんな行動をとるべきか、けして悲観せず孤立せず、考えていきたいと思います。先ほど若い人たちへの影響のことを云々しましたが、それでも、ネットを通じて海外のカルチャーを肌で触れている彼、彼女らのことを、信じ続けようと思います。

まずは、昔なじみの、もっとも倫理的な感覚を信じていたあの人に、久々に相談してみようかなあ。