されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『将国のアルタイル』の大陸――一神教なき世界で

 

 

漫画『将国のアルタイル』は、騎馬民族の半遊牧・半定住の国家「トルキエ将国」と、周辺国家への侵略を繰り返す領域国家「バルトライン帝国」との戦いを描く作品である。

世には戦記物とみなされているだろうが、筆者はその世界のデザインと描写の方法に興味を抱いている(むしろ、戦記物にしてはさほど戦術にウェイトがおかれていないように見える)。

 筆者の世界地理・世界史の知識は高校生レベルのものでしかなく、考えるには足元が頼りないのだが、今の時点で考えていることをまとめておきたかった。

 

私がもっている語彙、たとえば「国民」などという言葉は、あまりに近代的すぎる(現代ではなく近代)。語彙が近代の枠組みにとらわれている以上、私の思考が狭い枠組みの外に打って出ることはない。

であるならば、何を書いても意味をなさないのではないかと思って躊躇してしまうのだが、とにもかくにも、まず形にしてみないことには進めない。今書くためには、今持っている言葉を使うほかない。

今のこの虚しい取り組みが、いつかの足がかりとなることを願って、どうにか形にすることにした。

長きにわたって連載されている作品でもあり、私の記憶が正しいかどうか、本当はもう少し確認してから書くべきだったのだが、今のところはこれで。

 

 

ルメリアナ大陸の見取り図

 ルメリアナ大陸、この大陸が本作の舞台だ。他の大陸の国家は一部を除いて登場しておらず、大陸をまたいだ交渉が盛んではなかった時代だと想像される。銃火器の使用状況や国々の服飾技術を見ても、時代は中世とみてよい。

この大陸の西端にはバルトライン帝国という農業国が陣取っている。モデルは年次等からして(15巻81話で帝国が「453年」に滅亡する虞れがあると語られる)、東ローマ帝国だろうが、版図はフランク王国の最盛期に近いように思う。

一方のトルキエ将国は大陸東方に位置する商業国家だ。行政用語に多数の共通項が見られることから、モデルはオスマン帝国と思しい(主人公マフムートの「トゥグリル」という二つ名など、セルジューク朝を思わせるところもあるが、ごくわずかである)。

つまり簡単に言ってしまえば、ルメリアナ大陸はユーラシア大陸で言うところのヨーロッパ州にあたり、バルトラインが西ヨーロッパ、トルキエがアナトリアに位置する国であろうと想定される。

だが、地図を見くらべれば分かる通り、作中のルメリアナ大陸と、ユーラシア大陸とにはいくつかの相違点がある。

 

 

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22巻冒頭より引用

 

まず、ヨーロッパ州にあたる地域とアジア州にあたる地域とは、ユーラシア大陸とは違って海に隔てられている(ここでいうアジア州はモスクワを含んでいる)。トルキエのすぐ東の運河が、その境だ。

ブリテン島にあたる島は作中まだ登場していない。さらに黒海が存在しないため、アナトリアにあたる地域がヨーロッパ州と完全に地続きになっている。

将国のアルタイル』はいわば、アナトリアがアジアとは海で隔てられ、ヨーロッパとは隔てられていなかった世界を仮想しているということだ。

 

またユーラシア大陸では、アナトリアは三方を海に囲まれている。その東、騎馬遊牧民の暮らした中央ユーラシアは、東西南北の海から遠く離れ、乾燥と気温変化の激しい内陸の気候となっている。

翻ってルメリアナ大陸のトルキエ将国は、完全な内陸国である。とはいえ海から遠いわけでもなく、中央ユーラシアほどの激しい乾燥や気温差に見舞われることはないはずだ。

トルキエの北東に位置し、緊密な同盟関係にあるムズラク将国が港を持っているためか、海運に関して難儀している様子もない。 

つまりトルキエの地形・気候の条件は、ユーラシア大陸アナトリアや中央ユーラシアと正反対――海岸線を持たないが、内陸特有の厳しい気候には見舞われることのない土地――であると思われる。

作中の描写を見ていても、豊かな土地柄とは言えないようだが、他の土地への進出を余儀なくされるほどに厳しい自然条件に苦しめられている、ということはないようだ。

 

 畢竟、ルメリアナ大陸の地理は、トルキエが西と衝突しやすく、西南の海洋国家や東の諸国とは衝突しにくい状況を生み出している。

読者――ユーラシア大陸に生きる人間としては、「もしもアナトリアがアジアと縁遠く、ヨーロッパ州と完全に地続きだったならどうなったか」というifの世界を、ルメリアナ大陸にみることができるわけだ。

さて、そのifの世界とは、どのようなものなのか。まずは主要な国々を概観してみたい。

(なお、本作は現在も連載が続いている。以後のトルキエが領土拡張に進む可能性は作中示唆されている。この記事で述べることは、すべて単行本22巻までの状況に基づくものであることを断っておく。)

 

大陸の国々①トルキエと東方諸国

 「トルキエ」という言葉は、作中ではしばしば「騎馬民族」の意でも用いられる。トルキエとはそもそも民族の名であり、彼らが帝国の侵攻に備えて結集し、国家を形成したのがトルキエ将国なのだ。

 トルキエの土地は肥沃とはいいがたく、羊や馬の遊牧のほかに、一次産業の描写はほとんど見られない。宝飾品などの奢侈品を商うことにより活路をひらいた国で、作中随一の富裕な国家として描かれている。

 トルキエは千戸制を思わせるような、行政組織と軍事集団を兼ねるピラミッド的な組織体系を持っている。いかにも遊牧民らしいが、ただ一人に権力を集めるような体制はとっていない。国政は将軍(パシャ)たちによる合議制である。最終的な判断を下すのは大将軍(ビュラク・パシャ)だが、作中の描写をみる限り、彼が専制をふるうことはない。

 

 国境線や首都の警備は他の国家に比べて極めて手薄である。それは商業国家として、人と人との往来を活性化させることに力を注いできた結果だ。

トルキエは500年前、獰猛な騎馬民族として西方の人びとを震撼せしめ、国家建設を促した過去を持っている(その歴史は西方の人びとの目線から語られたものであり、トルキエの人びと自身の歴史認識は語られていないが)。

しかし作中の現在のトルキエは、軍備に予算を割いていない。国境線と商路の要衝さえ守れればよいという姿勢だ。

 

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21巻112話より引用

 トルキエの東には運河を挟んでアルギュロスという商業都市がある。街の名はギリシア語だが、建築物の描写はロシアを思わせる街だ。

アルギュロスのさらに東には「大秦」(チニリ)という巨大な国家があるという。これらの国々が位置する大陸はルメリアナ大陸とは別のものだが、その名は特に示されていない。ユーラシア大陸でいうところの、ロシア以東にあたる地域だ。

 チニリという国については「皇帝」「皇太子」がいる国であることがわかっており、はしばしの描写から相当巨大な帝国だと想像される。中華王朝がモデルだろう。

 東方諸国の中には藍、綿花などの商品作物を売る国があるというが、それらの国々に対し、トルキエは直接の販路を持っていない。トルキエや以西の国にとって、チニリや東方諸国は非常に遠い国、という感覚のようである。

 東方諸国のほうにはトルキエに対して多少の警戒心があるようだが、自ら虎をつつくような真似はしない。むしろ、ルメリアナの戦火が飛び火することを恐れているようだ。例えばアルギュロスは本来あらゆる国家権力の介入を許さない商人の倫理で動く都市である。しかし作中で有力商人は、バルトライン帝国の敵意を買うことを恐れつつ(9巻42話)帝国に不利な交易を黙認している(9巻46話)。

それはおそらく、トルキエが帝国に降るようなことがあれば次は自分たちが対帝国の最前線に立たされるからだろう。トルキエが東方に対する警戒を見せないのも、この東方諸国の姿勢ゆえだろうと推察される。

 なお、作品の外側の情報になるが、『将国のアルタイル』には『国のスバル』という外伝がある。おそらくそちらで東方諸国についての描写があるのだろうが、筆者は未見である。筆者はあくまでも『将国のアルタイル』の中で提示された情報に基づいて考えることとする。

 

大陸の国々②ウラド王国とバルトライン帝国

 今度はトルキエの西に目を向けよう。 トルキエの北西には、ウラド王国という王国がある。雪国である。

 ウラドの人びとは、かつて大陸中を支配したという古代帝国、ポイニキア帝国の末裔であるという。ローマ帝国の末裔、ルーマニア王国がモデルと思しい。

ウラド国王は古代ポイニキア帝国のことを、商路や同盟を維持するために伸び切った国境線を守って疲弊した国と捉えている(9巻44話)。それゆえにウラドは、先祖とは裏腹に徹底した鎖国政策をとってきたのだという。峻険な地形・気候に助けられ、バルトライン帝国の侵略も退けてきている(9巻46話)。

 

 バルトライン帝国は、もともと大陸の「バルト地方」に興った。領土拡張を続けて「ライン地方」の諸王国を併合した結果、「バルトライン帝国」を名乗るに至った国家である(9巻46話)。

農業国家であるバルトライン帝国は、領域支配を必要とした。領内にはきわめて貧しい土地もあり、増え続ける食糧需要を、さらなる領土拡大によって補うほかなかった。多大な軍事費のため国民は重税にあえいでいる。

かくして拡大を続けた結果、現在国境の一部は東のトルキエと接している。バルトライン帝国は南ルメリアナ地方(後述)にも戦線をはり、侵略の手を伸ばしているから、(完全に同時にではないが)南方と東方の二面で侵略戦争を展開していたのだ。

 

 バルトラインにはウラド王国とは違い、属領との共存共栄を目指した古代ポイニキア帝国のことを、一つの理想像として捉える文化がある(15巻80話)。

しかし帝国がとっている統治方針は異なるものだ。端的にいえば力による支配である(15巻78話)。帝国において、実権を握っているのは筆頭大臣である。文官だが、軍事作戦の立案も多くが彼によるものらしい。他の大臣や大将などの発言力は、到底彼に及ばない。

 

また帝国に特徴的な組織が常備軍である。国民・征服民の支配・反乱抑止、治安維持のために必要とされたものだ。

非常に整った階級制度を備えており、「国民の犠牲の上に成立する諸悪の根源でありながら下から上まで実力主義が徹底された帝国で唯一の健全な組織」(19巻99話)である。帝国は騎馬遊牧民として勇名名高いトルキエの「8倍以上」(15巻78話)の戦力を持つというが、その要にあるのが常備軍だ。

ただしバルトラインの軍人は、総じて海戦には弱い。「海軍後進国家であるが兵数を有する」と語られている(11巻58話)。このあたりに、バルト海周辺を基盤とした、ユーラシア大陸ゲルマン民族との違いが見て取れる。

 

大陸の国々③クオーレ地方とセントロ

 さてトルキエの南西には、心臓(クオーレ)と呼ばれる地域がある。クオーレ地方はその名の通りルメリアナ大陸の内陸部にあたり、34の共和制都市国家が割拠している。ユーラシア大陸でいうところの、イタリア半島周辺と推察される。

これらの国々は古代ポイニキア帝国の生まれた地としての誇りを持っており、洗練された文化と経済力を備えている。クオーレの領袖というべき国家はフローレンス共和国であり、ソフトパワーと外交によって国を維持していた。

軍事力はもっぱら傭兵団頼みである。そのため、クオーレの小都市の間では長らく「八百長戦争のぬるま湯」(14巻73話)と揶揄されるような小競り合いしか起こっていなかったようだ。

 

 クオーレからさらに西へ進むと、南ルメリアナと呼ばれる地域になる。ユーラシア大陸でいうところのイベリア半島周辺にあたるようだ。クオーレ同様多数の共和国がひしめく土地だが、帝国の侵略に直面している点がクオーレとの大きな違いである。

 この地域において際立っている国の一つが、天上の都(チェロ)である。チェロはもともと救貧院を母体とする都市国家であり、首長は「院長」(ディレクトル)を名乗る。

財政を諸国からの喜捨に大きく依存する一方で、ほぼ無条件に難民を受け入れ続けている。作中では、バルトライン帝国の侵略を逃れた周辺国家の民を受け入れていた。

そのため、チェロ国民の帰属意識や、互いに対する同胞意識の程度には濃淡がある。簡単にいえば烏合の衆である。軍事力はやはり傭兵頼みだ。

 この国の理念は、現世に救いを求めることがかなわない人びとの死を、いかによいものにできるかという点にあった。もとより、生き延びるための国ではないのである。

非常に危うい人たちのために、非常に危うい人たちの手で運営されていた国なのだから、その不安定さは他の国家の比ではない。

  

 クオーレ・南ルメリアナを南にくだると、大きな内海がある。地中海よりもさらに東西に長い、「央海」(セントロ)と呼ばれる海だ。今度はセントロに面する海洋都市国家のことをみていこう。

これらの海洋都市国家群はいずれも内陸の領域支配は目指していないらしく、自給自足できていない(9巻46話)。もっぱら海洋貿易により国を維持している商業国家だ。

 その都市国家のうちの一つ、ポイニキアはかつての古代ポイニキア帝国の成れの果てである。実際のところ、現在のルメリアナ大陸の国家は大なり小なり、古代ポイニキアの特色を受け継いでいる。中でも直接の裔であるポイニキアは、時代錯誤的としか言いようのないほどに、古代的な生活文化と政治形態――議会制を維持していた。このポイニキアという国、むしろ理念の行く末が、『将国のアルタイル』全体の通奏低音となっている。

 

 一方のヴェネディックは、利に聡く合理性を尊ぶ商業国家である。商人が政治家、軍人を兼ねている点が特徴的な共和国だ。

元々は騎馬民族トルキエに追われた人びとが建国した都市国家であり、その後も海に暮らす多様な商業民を受け入れている。そのため国民のルーツは様々だが、商人としての倫理が国民共通の理念となっており、帰属意識は非常に高い(商業理念に基づく国家運営という点ではアルギュロスに、帰属意識の高さでは、実はポイニキアによく似ている)。

その自国本位な姿勢ゆえに諸外国からの信頼は得られていないが、国内では元首(ドージェ)の権力基盤は揺るぎない様子であり、ヴェネディック商人同士の連帯も強固なものだ。

 

 ヴェネディックに対して強い対抗心を抱いている国が、セントロの中でも西方に位置するリゾラーニである。リゾラーニは並外れた航海技術を持つ者を多々輩出しており、国民各々が己の腕をたのんでいる。

ヴェネディック同様の共和制をとってはいるものの、ドージェの統制が及ぶ範囲は限定的であり、個人主義実力主義的な風潮が強い。海戦に強く、個々人の腕前だけでいうならばヴェネディックをしのぐ。

 

神なき大陸

 さて、ルメリアナ大陸の諸国家のうち、特に目立つもののあらましを少し拾ってきた。しかしこれまで縷縷述べてきたことは、驚くほどに巨大なファクターの記述を欠いている。

宗教・信仰である。

 

 ユーラシア大陸では、ヨーロッパ州からアナトリアにかけて、一神教が席巻した。まずはユダヤ教、そしてキリスト教イスラームである。

キリスト教はローマからヨーロッパ各地に広まり、イスラームアラビア半島に生まれ、アナトリア中央アジア、アフリカ大陸、イベリア半島などへと広まった。

ユーラシアでは同じく唯一の神を奉じながら、異なる教えを持つ文化圏が、地中海をへだてて向き合っていた。そしてそれゆえに、キリスト教世界とイスラーム世界の間には寛容と不寛容、どちらかの姿勢しかありえなかった。

領内でのキリスト教信仰を認めたオスマン帝国のように、同じ神を尊ぶものとして容認するか、十字軍を組織したローマ教皇のように、徹底して戦うかのどちらかになってしまう。どうしたって宗教上の違いは、中世ヨーロッパ周辺の国々の関係をみる上で、欠かせないファクターだったはずだ。

 

 だがルメリアナ大陸には、一神教が存在していない。「水の精霊」などの五つの自然神に対する信仰「五首信仰」のみが存在している。

しかもそれが、ルメリアナの各国に共有されているのである。トルキエの将軍ザガノスは、ルメリアナ全土に密偵網をはるために「水の精霊」の神殿を利用している。ザガノス将軍がバルトラインの内情をもつかみ、クオーレ、南ルメリアナにも密偵を置いているところからすると、おそらくルメリアナ全体に共有されている信仰だと考えてよい。

 

五首信仰はアニミズム的であり、明らかに土着信仰とのつながりを思わせる。アニミズムは、信者たちがみな共通する自然観を持っていなくては成立しえないはずだ。

それにも関わらずルメリアナ大陸全土に同じ五首信仰が行き渡っているということは、それはつまり、大陸全体の風土がある程度共通するものだということを意味する――寒帯の人と亜熱帯の人の自然観が同じであろうはずがないから。

アニミズムや自然観のような、その土地土地に根ざすはずのものが、大陸全土に共有されているというのは、驚くべきことだ。トルキエでは「水の精霊」、ポイニキアでは「土の精霊」信仰が篤い(3巻12話)などの濃淡があるとはいえ、他国と文化的に異質なトルキエまでもが同じ信仰の枠組みを共有しているというのは、いささか信じがたい話にも思える。

 

 しかしこう考えていると、最初に確認してきた地形の設定の意味に思い当たる。

先述の通り、ルメリアナ大陸には内海らしい内海が存在せず、ほぼすべての国が陸続きだった。そしてユーラシア大陸に比べると、ずいぶん小さい大陸であった。

この条件があるからこそ、東西南北の差こそあれ、地域間の気候の差異が小さく済んだのではないか。そして大陸全体に同じ自然観とアニミズム――五首信仰が共有されるにいたったのではないか。

トルキエも東方諸国の影響を受けていれば別の信仰を持ったかもしれないが、先述の通り東方とはほとんど交渉を持っていなかった。これも、地理条件がもたらした、ユーラシアのテュルク系と、ルメリアナのトルキエとの違いの一つであろう。

 

 実際のところ、作中、気候についてはさほど言及がないため、上記は断言できることではない。

ただ、『将国のアルタイル』の描写は禁欲的で、贅言を費やさない。よくみると国ごとに好まれる装いなども全部違っているのだが、そうしたことはすべて絵に語らせて、文字では要点しか取り上げない。読者をよく信頼する描写スタイルだ。

このスタイルから考えると、「明示されていないことは描かれていないことだ」という捉え方は、本作には当てはまらない。

無論、筆者が述べてきたことの妥当性は今後さらに精査する必要がある。ただ現時点では、作中明示されている地図と、同じく明示されている五首信仰のあり方の両面から、合理的に導かれうる理解ではないかと思っている。

 

ルメリアナ大陸に見える「世界」

 もしかしたら一神教の排除は、作品の外側の事情によるものなのかもしれない――イスラーム法にしらずしらずのうちに抵触してしまうリスクを避けたためなのかもしれない。

本作は、トルキエ将国が周辺諸国と組んでバルトラインに抗う物語であり、その間には見知らぬ文化との出会いと融和がある。

その過程で、イスラーム法から見て問題のある描写が含まれる可能性は、大いにあっただろう。全く知らないことについて述べているもので唇も寒い思いがするが、もしも、トルキエ将国をモデル通りイスラーム国家にしていたら、イスラーム法への配慮になかなか骨が折れたのではないだろうか。

 

 ただし、本作における一神教の排除を、作品の外側の事情だけに帰してしまうのも、いかがなものだろうか。本作の一神教なき世界の設定は、表現の自由と安全を守っただけではなく、本作の表現のために大きく貢献しているものだと、筆者は考えている。

 たとえば同じく一神教を回避するにしても、国ごとに別々の信仰を持たせることもできたはずだ。それは特に難しいことではなかっただろう。むしろ、信仰の違いによって対立しているのだと説明してしまうほうが、よほど楽だっただろう。対立に合理的な理由も、説明もいらなくなるのだから。

しかし『将国のアルタイル』はそうしなかった。大陸中に同じ信仰をもたせた。それは信仰の違いによって人間を切り分けないという意思表示だ。

 

 実は本作では、宗教的モチーフは排除されていない。トルキエではモスク、アルギュロスではロシア正教の玉ねぎ屋根に見える建物が描かれている。ヴェネディックの元首の首には十字架がさがっており、またヴェネディックの「水の精霊」の神殿の中には、キリスト教絵画としか見えないものが描きこまれている(4巻18話)。

こうした描写は本作の設定の不徹底さにも見えようが、十字架が宗教的なモチーフであることは、子どもにだってわかる。そんなモチーフを、相当にこのあたりの歴史・文化を勉強しているものと見える『将国のアルタイル』の作者が排していないのだから、それはうっかり描きこまれてしまったものとは思いにくい。背景に映り込んだだけならともかく、ヴェネディックの元首のような重要人物の装束描写に、十字架が意味なく入り込むはずがない。

 

 それはつまり、『将国のアルタイル』における宗教的なモチーフや建造物は、完全に信仰から切り離されて存在しているということを示しているだろう。言い換えれば、『将国のアルタイル』は、地域間の建造物の違いも、宗教的なモチーフの違いも、すべて文化的な差異として捉え直しているということだ。

あるものの意味を喪失させるために有効なのは、存在を葬り去ることではなく、存在を維持させたままに無視することである。孔伝古文孝経焚書坑儒を生き延び、忘却によって滅んだ(日本では生き延びたが)。 

 

 尖った物言いをしてしまったけれども、『将国のアルタイル』がユーラシアの実在する宗教に対して、オフェンシブな態度をとっているわけでは決してない。ただ、この方法によって、宗教というものを透明化させているということが言いたいのだ。その結果、本作においては、ユーラシア大陸においては宗教におおわれてみえなかったものが可視化されている。

 ルメリアナ大陸はユーラシア大陸のifの世界だと、先だって述べた。そう仮想することの意義は、今ここにある。

 

 さらに勇気を出して、もう少し先まで思考を伸ばしてみよう。

 もし、信仰や、海や、風土に人間が切り裂かれることがなかったのならば、異なる国と国のあいだにはどんな関係が結ばれうるのか。

 この問いは、ユーラシア大陸の歴史を見つめていたのでは、けして問題視することのできない問題だ――信仰や、海や、風土に阻まれないなどということは、現代のこの地球ではありえないのだから。

しかしこの問題が、ユーラシア大陸にとって意味のないものであるかといえば、そんなことはまったくない。むしろ、他者と向き合う用意がないままに、インターネットによってやすやすとつながってしまう現代の人間たちにとって、切に必要な問題だ。

そう考えると『将国のアルタイル』は、実は21世紀のユーラシア大陸に向き合っているように思える。

 

 わたしは何であれ芸術に向き合うとき、功利的なものの見方を持ち込みたくないと思っている。しかし本作が、今のわたし、他者とつながりながらも様々に分断されているわたしに、たくさんの示唆を与えてくれていることに感謝しているのも、事実である。作品を鑑賞する「わたし」とは、また別の地平に立っている「わたし」の事実だ。

 このような見方ができてしまうということから翻してみると、『将国のアルタイル』の世界観は、少し図式的に整理されすぎているかもしれない。あまりにも捉えやすく、考えやすく作られすぎているかもしれない。

 

しかしその禁欲的な描写態度は、本編が語らなかった物語が、その世界にたくさんあることを示唆してくれている。まだまだ、うがった読み込みに応えてくれる作品だと思う。

したがって本稿でも言い残したことはたくさんあるのだが、それはまた追って。

まだ推敲せねばならないところはたくさんあるだろうけれども、今はとにかく、完成させるということだけを目指してみた。ここで筆を置く。