されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

ルメリアナ大陸の服飾文化①道化と異端

※『将国のアルタイル』13巻で描かれるリゾラーニの海戦の結末と、12巻から登場する天上の都(チェロ)について言及しています。未読の方はネタバレにご注意下さい。

※本記事はセックスワーカーや芸能者、視覚障害者への差別・偏見の現れと受け取られうるオフェンシブな表現も含みますが、それはあくまで中世の社会について述べていることであり、今日の社会についてあてはめるべきことではありません。まして、私個人の信条からは遠いものであることをお断りしておきます。

 

読み飛ばしていただいても問題なさそうな前置き

漫画 『将国のアルタイル』は騎馬遊牧民国家トルキエと、バルトライン帝国との対立を描く作品です。

トルキエが周辺国家と同盟を組み、バルトライン帝国に抗してゆく過程においては、様々な政体・文化を有する国が登場します。今回は、その生活文化の中でも、ファッションに注目していきたいと思います。

 

その際、主に中世(特に15世紀)ヨーロッパ服飾を参照します。『将国のアルタイル』の舞台は架空の大陸・ルメリアナ大陸ですが、そのモデルはメフメト2世の時代のユーラシア大陸ヨーロッパ州だと、読者にわかるように作られていると考えるからです。

ルメリアナ大陸の地名には「ヴェネディック」「フローレンス」のような、明らかにヨーロッパのどこかを思わせる名称が採用されています。前記事で検討した通り、ルメリアナ大陸の地形はヨーロッパとは大きく異なっています。もしそれに重ねて、地名もヨーロッパのそれとは大きく違えていたなら、読者に特定の場所を想起させることはなかったでしょう。それなのに本作はあえて類似性を前面に出す名前をつけているのですから、そこに何らかの意図や表現上の効果をみてよいでしょう。

その効果には、ある文化圏のあり方、価値観を示している場合と、個々の人物の造形に関わっている場合との二通りがまずは考えられますが、今回は後者の視点から考えてみたいと思います。

 

ただし、筆者はファッションについて体系的に学んだことがありません。まったく専門性のない人間が趣味で考えているだけの、信憑性に乏しい記事ですので、その程度のものとしてお読み下さい。

私の考えの土台になっているのは、むかしむかしに読んだ以下の二冊です。

  • ミシェル・パストゥロー(松村剛・松村恵理訳)『悪魔の布―縞模様の歴史』(白水社、1993)
  • 徳井淑子『服飾の中世』(勁草書房 、1995)

 

また『将国のアルタイル』は豪華な画集が刊行されており、筆者も入手済なのですが、実家に置いてしまっているためカラー画像を確認できずにいます。後日大幅に補筆する可能性がありますが、ご容赦下さい。

 

 

リゾラーニ:アマデオとドナテッロのファッション

本当は、この2人のことさえ書くことができたのならば、私はもう満足なのではないかと思います。

アマデオ・ボッカネグラとドナテッロ・ドーリアのことです。

 

この2人は11巻から本格的に登場します。両名ともヨーロッパで言うところのイタリア、ジェノヴァを思わせる都市国家「島の都(リゾラーニ)」の実力者です。

アマデオ・ボッカネグラは年若い天才的な船乗り。その卓越ぶりはもはや異能の域に近く、「海神に愛された子」「百年に一人」などと評されました。ボッカネグラ家はリゾラーニの名門ですが、アマデオはボッカネグラ家のなかにあっても稀有な存在です。

ドナテッロ・ドーリアは、リゾラーニのもう一つの有力貴族、ドーリア家の当主です。個人主義実力主義の風潮が強いリゾラーニにあって、ドーリア家とボッカネグラ家は長年しのぎを削ってきました。

 

作中アマデオとドナテッロは協調して帝国と結びますが、土壇場のところでドナテッロが敵国のヴェネディックと呼応し、アマデオを捕えます。ドナテッロはそれまでも人によって顔を使い分け、演技的に振る舞っていたのですが、いよいよ道化の本性を明らかにしたのえす。

なにせ船の名までもが「道化師号(アルレッキーノ)」です。

その後、ドナテッロはヴェネディックの元首に、リゾラーニが自ら自分の首を絞めたことを指摘されて落ちがつきます。その滑稽さ、愚かさ、あわれさまでも含めて、完璧な道化ぶりでした。

そんな彼のいでたちをみてみます。

f:id:asobiwosemuto:20200731223555j:plain

13巻68話より引用

 

上衣(プールポワンと呼ばれるものでしょうか)のダイヤ模様は、アーガイルと似て見えますが、違います。英語ではハーレキンチェックなどと呼ぶ模様で、中世イタリアの即興仮面喜劇に出てくる道化、アルレッキーノの衣装に用いられます。アルレッキーノとはドナテッロの船の名そのものでした。

 

足元(ショース、タイツのようなもの)は縞模様。縞模様は中世ヨーロッパでは忌み嫌われた模様であり、社会から逸脱した人たち――宗教的異端や罪人、娼婦や道化の装束でした。叙事詩などの挿絵などをみていると、悪人の装束に縞模様を用いる例もみられます。

 

ここまででも十分なのですが、さらに彼の服はミ・パルティ(片身替わり)になっています。これも縞模様同様、多色を用いる模様であり、社会の枠組みから外れた人とむすびつけられやすかったものです。特に道化や放浪楽士などや小姓の衣装に用いられることが知られています。

ミ・パルティはおそらくイタリアで発生したとみられる意匠で、当初は若年層を中心に流行したようです。1968年の映画『ロミオとジュリエット』を見ると、コタルディやコッドピースといった当時のボディラインを誇張するファッションを堪能できます。そして、モンタギュー家の若者たちが、ミ・パルティを好んでいる様子が確認できます。

 

ミ・パルティも縞模様もどちらも目立つ奇抜な模様です。特定の状況や意味付けのもとであれば上流階級も用いることもあったようですが、基本的には若者や子どもに多かったようです。やがてミ・パルティは道化、そして娼婦や罪人、障害者などが着用を強いられるものとなっていきました。

15世紀には、例えば聖書のカインとアベルを描く際、弟を殺したカインの服をミ・パルティとした例などが出てきます。

 

f:id:asobiwosemuto:20200801011012j:plain

画像は15世紀のカインとアベル、恥ずかしながらウィキ

コモンズからお借りしましたFile:Cain and Abel, 15th century.jpg - Wikimedia Commons

 

娼婦や罪人に並んで小姓がミ・パルティをまとうのは異質なようですが、これは若者や子どもがミ・パルティをまとっていたことがそのまま引き継がれたもののようです。この時代の子供は、「不完全な人間」とみなされており、今日のような「子供だから保護する」という発想はありませんでした(フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』が、このあたりを明らかにした古典的名著として知られています)。

「普通の人間ではない」という点においては、子どもも社会からはみ出した存在だったのです。

ちなみに『将国のアルタイル』においても、バルトラインの小姓ニコロの衣裳がミ・パルティです。

 

さてそのミ・パルティを、堂々たる体躯の成人男性、ドナテッロがまとっています。それはやはり、いささか異様な姿です。上衣の色を左右半々の形で用いた上に、トランクホーズ(いわゆるかぼちゃパンツ)と上衣の間でも上下で互い違いにしているのだから徹底しています。

 

つまりドナテッロは道化にふさわしい意匠を、ハーレキンチェック、縞模様、ミ・パルティと三重に重ねて用いているのです。こんなにも道化という役どころに忠実な衣装があるでしょうか。いっそ健気ですらあります。

 

 

一方のアマデオの装いは道化というよりは異端的です。

f:id:asobiwosemuto:20200801004754j:plain

11巻58話より引用

 

アマデオは名門の出であるにも関わらずマントの類をまとわず、丈の短い服をまとっています。

ヴェネディックの元首ルチオや、アマデオの伯父、ロニ・ボッカネグラなどと比べると、とにかくアマデオの衣類は丈が短いのが特徴的です。それは、彼の若さによるのでしょう。

 

ただ気になるのは、彼の体のラインです。あまりにも体の線がでていて、しかもそれが、いかにも未成熟で華奢なのです。

 

中世ヨーロッパにおいて、身分ある人や権威を重んじる知識人が丈の長い服を着るのは古くからの習慣であり、丈の長さが身分や権威の象徴となります。

作中ではアントニオ・ルチオの雰囲気が近いでしょうか。

一方、コタルディ、コッドピースなどを用い、体のラインを誇張するのが新しい流行です。ふくらはぎのラインや上半身のたくましさを強調し、男性性を誇示しました。先程のドナテッロなどが典型的でしょう。体格に恵まれなかった男性は、ふくらはぎに詰め物をすることさえありました。

 

そのあたらはい流行と比べると、アマデオのシルエットは同じく体の線を出すにしても、性格が違います。

線の細いペンシルシルエットの衣装をまとう人物は、筆者が思い出せる限り、作中、彼以外に見当たりません(体格が華奢な人物ならばいますが)。

 

このシルエットの違いは、アマデオの他とは一線を画する異質さを、読者に感得させる効果を持っているように思います。

それというのも、体にそったラインの服を作るには、相応の技術が要求されたのです。現代は立体的に縫製された衣類が当たり前のように入手できますが、その技術は近代以降のものです。それまでは衣類を体にそわせるために様々な方法が工夫されており、その方法に時代や文化圏の特色が現れるほどでした。

 

中世ヨーロッパでは古くは着るたびに袖を縫い合わせる方法や、紐で縛る方法がとられており、時代が下るにつれてイスラム圏のボタンが取り入れられました。

特に中世ヨーロッパのメンズファッションにおいては、袖や脚衣(ショース、タイツのようなもの)を上半身につなげ、ずり落ちないように固定するために涙ぐましいほどの工夫がとられてきました。

リボンで結わえ付けるのが基本だったようですが、特にショースの絵画資料を調べると、無数の中世ヨーロッパ男性のパンチラを見ることができます。足腰の可動域を確保しつつ、安定させるのはなかなか難しかったようです。

 

 

さてヨーロッパ大陸からルメリアナ大陸に目線を戻します。

諸々の描写をみるに、ルメリアナ大陸の文化的な技術の水準は、中世ヨーロッパとそう変わらないものと思われます。それなのにアマデオは、まるで現代のカットソーとスキニーパンツのような、体にフィットした衣装をまとっています。よく見ると腰回りになにか布を巻いているから、そこでショースをとめているのだろうとはわかります。しかし、服飾にあまり気を留めてない読者には、現代のパンツとほぼ同じものに見えるのではないでしょうか。アマデオの軽やかな衣裳は、一見技術的に時代を飛び越えたもののように見えます。

 

ここで筆者が言いたいのは、時代考証がおかしいということではありません。そうではなくて、『将国のアルタイル』の時代考証がしっかりしたものであるからこそ、衣装デザインにもアマデオの特異性が現れていると言いたいのです。

その証拠に、アマデオの伯父のロニの上衣は、身頃と袖の間がつながっていません。この時代はパーツとパーツを一体のものとして縫い上げる技術がなかったため、袖と身頃はリボンなどでつないだり、あるいは着てから袖を体に添わせて縫い上げたりなどする仕組みでした。

f:id:asobiwosemuto:20200802152227j:plain

13巻68話より引用。身頃と袖のあいだにすきまがあいていて、下に着ているゆったりとした衣類がのぞいています。こうすることで肩の可動域を確保していたのでしょう

一方アマデオは、11巻から13巻までみていた限り、一度も袖と身頃が別々のパーツから成っているとわかるシーンがありません。むしろ、袖と身頃が一体のものとして縫製されているとしか思えない場面が多々あります。

他の人物たちはもちろんのこと、同じ国、同じ家の出身のロニが、このような中世的な構造の衣類をまとっています。その中でアマデオだけが異様なのです。

 

となるとそれは、やはり意図的にとられた表現の工夫なのではないでしょうか。シルエットの違いというのは、特に服飾に関しての知識がなくても視覚的に感じ取れるものです。筆者は今一生懸命言語化しようとしていますが、そもそも何となく違う印象を与えるだけでも、表現としては十分成功のはずです。

 

 

もう一つのアマデオの特色は、縞模様です。アマデオはドナテッロと違って横縞ですが、忌み嫌われたことは縦縞と変わりません。そのことは、今なお囚人服が横縞であることがよい証拠となってくれるでしょう。

しかしながら、ドナテッロの縞模様やミ・パルティが道化の表象として理解できたのに対し、アマデオの縞模様はいささか性格が違うように思います。一言で言うならば、「異様さ」を示したものだろうと、筆者は考えています。

 

初めてアマデオの太い縞模様を見たとき私が思い出したのは、13世紀にカルメル修道会の修道士がまとう縞模様が、人びとにパニックを起こさせた事件でした。

縞模様は道化や罪人などに用いられた模様ですが、それらの象徴であっただけではありません。その模様自体が、中世ヨーロッパでは非常に異様な印象を与えるものであり、忌み嫌われたものだったのでした。

 

縞模様というのは、中世ヨーロッパ社会において「普通」の人がまとうものではけしてありませんでした。ミ・パルティ同様、道化や、派手な装いを好んだ傭兵集団のランツクネヒトが好みましたが、それは「あえて」縞模様をまとったのです。

 

f:id:asobiwosemuto:20200801012639j:plain

カルメル修道会の修道士たちの衣裳。画像はカルメル修道会のサイトからお借りしましたhttp://www.carmelites.net/blog/carmelite-chroniclesthe-rule-of-st-albert/

一方ルメリアナのアマデオはAmadeo(愛+神)の名のとおり、神話の時代とのつながりを思わせる異形の子です。協調性のかけらもない、人間社会の常識とはかけはなれた世界を見つめている天才です。

そんな人物の特異性と、縞模様の異様さはよく調和しています。

 

 

少し飛躍するようですが、日本の軍記物語研究者の兵藤裕己氏は、『琵琶法師――〈異界〉を語る人びと』という一般向けの新書を出されています(岩波新書)。

その中で兵藤氏は、琵琶法師たち盲目の芸能民が、盲目であるがゆえに「今・ここ」の現実社会を離れ、死者や異類の生きる異界と通じることができたことを指摘されています。また民俗学研究者の川村邦光氏は中世日本の盲目の芸能民たちがその身体障害ゆえに聖性を帯びてゆく過程を『巫女の民俗学―「女の力」の近代』で説明されています。

 

本作のアマデオも目に傷を負いました。それは中世社会の中で生活するためには致命的な傷です。もう二度と、彼は誰かの書いた文字を読むことができません。誰かの表情を読み取ることができません。社会的に見れば、アマデオは盲目となった瞬間落伍者となったはずでした。

 

しかしアマデオは、目を負傷した直後でも、海の様子をありありと捉え、船団の指揮をとりました。それは凡人の常識ではおしはかることのできない世界です。盲目となったという事実は、かえって彼がいかに傑出した存在であったか、人智を超えた「海神の子」であったかを浮き彫りにしました。この失明というスティグマは、アマデオという神の子の表現として、あまりにも完璧でした。

 

そんなアマデオの特異性を表現するのに、衣装デザインも何かしら貢献していたように思う次第です。

 

 

なお、ミ・パルティや縞模様の地位が低いのは、コントラストの強い多色の色使いが嫌われたためです。

しかしそれだけではありません。特に縞模様嫌悪は、聖書の解釈にも結び付けられていました。

 

もちろん、一神教が排除されている『将国のアルタイル』では、その由来自体は意味を持ちません。

とはいえ、十字架などのモチーフが信仰から独立し、文化の特色を示す指標として存在しているのではないかということは以前別の記事で述べました。

ルメリアナ大陸に信仰そのものはないにせよ、一神教の世界観において作られた異端のイメージや、異端を示すモチーフは受け継がれているのであれば、アマデオの縞模様に異端的なイメージを見出してもよいのかもしれません。

アマデオを愛した海神は、一神教の世界では異教の神です。

 

 

アマデオについては書きたいことが嫌というほどあり、今もあえて書き残していることがあるのですが、とりあえず先に進みます。

 

【追記:アマデオのことを書きました】

アマデオののこと、アマデオの神秘性、古代性のことをそれぞれリンク先の記事で書きました。

私はアマデオのことが大好きみたいです。

 

 

チェロ:カルバハルのファッション

縞模様シリーズというところから、今度は天上の都(チェロ)に目を向けます。

まずはチェロという国家のあらましから確認しましょう。

 

チェロは救貧院を母体とする城塞都市国家で、急峻な山の上に築かれています。建築物や地理的条件についてはサンマリノ共和国がモデルのようで、サンマリノ政庁やバシリカ(大聖堂)、そしてサンマリノの国旗に描かれている三つの塔など、酷似する建物が認められます。

政庁などはそのままの用途で登場しますが、バシリカは「マジョルガ孤児院」として登場しており(12巻61話)、大聖堂ではありません。本作の宗教色の排除は念が入っています。

 

ただし、チェロのモデル問題は厄介です。まず、イタリア半島に位置するサンマリノとは違い、チェロで用いられる用語や人名はスペイン語系のものが多くなっています。

チェロという国名は、11巻59話の地図で「Chero」と綴られていますが、これはスペイン語で「友、仲間」(pal,buddy,mate)を意味するようです。窮したもの同士の友愛、助け合いを重視する国家のあり方を反映しての命名でしょうか。

【追記2020/8/23】14巻76話でchieloと綴られているのを確認しました。そちらの綴り・発音だとスペイン語で「天上」にあたるようです。 

 

 

今すこし言及したように、チェロの特色は何といっても、あの世以外に行き場のない人たちの受け皿となるという国家の理念にあります。

作中でも、周辺の国家から数万という数の難民たちを受け入れました。それについても何かモデルがあるのかもしれませんが、筆者にはあいにく突き止められませんでした。

チェロにはその理念ゆえに多額の寄付が寄せられているといいますが、喜捨を名誉とする価値観や寄付によって慈善施設を運営する仕組みは、イスラーム世界に類例がありそうに思います。

一方、ヨーロッパにおいて救貧院と似た役割を担い、また都市国家のように自治を行うとなると修道院が思われますが、修道院ならば山にあることも珍しくないでしょう。

スペインはイスラーム世界との関わりが深い地域ですが、サンチャゴ・デ・コンポステーラのような有名なキリスト教の巡礼地・巡礼路も持っています。筆者にはなかなかチェロのモデルの絞り込みがききません。

 

 

チェロで行われる「喜捨」に「カリダッド」というルビがあてられているのが大きなヒントなのですが、calidadはスペイン語で「質」(英語でいうquality)の意であるといいます。

せめてもと、オンラインでスペイン・英語の辞書も引いてみましたが、成語のようなものも見つけられませんでした。お手上げです。

 

 

さて、本来なら、モデルが絞り込めないと、ヨーロッパ服飾のどのような事例を参照してよいのか、判断がつきません。

ただそれでも、イタリア・スペインと無縁ではないということは言えそうです。ヨーロッパ世界と関係がある地域なら、縞模様嫌悪はあります。

それならば、元首カルバハルの縞模様にも、ドナテッロ、アマデオの場合同様注目してよいだろうと、筆者は考えます。

そうしたわけで、具体的にみてゆきます。

 

f:id:asobiwosemuto:20200801152434p:plain

12巻60話より、芝居に演者として参加するカルバハル

 

上の画像に引用したように、カルバハルは国家元首でありながら、芝居に演者として参加します。それも勝手に筋書きまで変えてしまうような演者です。

民衆は親しみを込めて彼を呼び捨てにし、孤児院の子どもたちは彼の服の裾をつかみます。

 

f:id:asobiwosemuto:20200801155000j:plain

12巻61話

 

彼はいつなんどきもやわらかな口調と笑顔を崩しません。しかしそのきれいごとを寄せ付けない率直さは、初めて交渉にあたったときのマフムートをもたじろがせました(12巻60話)。

カルバハルが帝国に対して見せた覚悟の苛烈さも、読者の印象に残ったでしょう(少なくとも筆者の印象には残りました)。

 

これは個人的な印象でしかないのですが、アマデオだけでなくカルバハルにもどこか人間離れした印象があります。

それはアマデオのような、能力ゆえのものではなく、彼の思想に、限りなく狂人か、あるいは聖人に近づいているような怖さがあるように思うのです。

 

チェロに集った弱者や難民たちは、ちょっとした加護をもたらすような精霊やおまじないではなく、根本的な救抜をもたらす存在を必要としています。

しかしルメリアナ大陸には一神教の神がおらず、救済を担う者がいません。その中で、救済者の役割を引き受けたのがカルバハルだったのではないでしょうか。

彼が演じていた芝居の演目は『天上の鍵』ですが、「天の国の鍵」ならば『聖書』マタイの福音書(16章19節)に登場します。現在のバチカンの紋章にも金色の鍵の姿で描かれる、宗教的権威の象徴です。

舞台上のカルバハルは芝居の脚本を変えて、その天上の鍵を、悪人ふくむ全員にばらまいてしまいました。あくまでも芝居だとはいえ、それが救済でなくて何でしょうか。

救済というのは常に主観的にしかなされないのですから。

 

客観的にみてどれだけ豊かでも、美しくても、幸福なわけではありません(それは『源氏物語』『狭衣物語』が見事に描き出したとおりです)。

救われたと思うことができたときに人間は救われるのであり、人間を救うことができるのは、救われたと思わせることができるパフォーマーです。

断定的な書き方をしてしまいましたが、今私が書いたことは必ずしも普遍的ではないでしょう。ただ、今見ているカルバハルの場合に関して言えば、きっとあてはまるのではないかと思っています。

本作では何度か「幸福に死ねる」とはどういうことなのかが問題に上がっているのですから。

 

 

話を本筋に戻してまとめますと、カルバハルのおどけた振る舞いの裏には、死にゆく人間の現実を見つめる冷静さがありました。

屈託なくやさしい態度の裏には、厳しい覚悟がありました。そして、その両面を抱いたまま、芝居の演目に託けて、救済者として振る舞っていました。

この二面性と演技性には、道化やトリックスターのそれと共通するところがあるように思います*1

それは、愚者であると同時に賢者であり、愚者であると同時に聖者である者たちの二面性です。救われない人びとの筋書きを変えてしまう者のちからです。

 

そんなカルバハルの衣裳として、縞模様はたしかにふさわしいでしょう。

カルバハルの縞模様はドナテッロのように前面におし出されたものではありません(ドナテッロは袖口とショースに縞模様を配していました。それはとても目立つ位置です)。カルバハルの縞模様は、腰の周りに重ねた布の下から垣間見えるものでした。

 

ドナテッロはミ・パルティの模様そのままに、半身ではアマデオと手を結び、半身ではヴェネディックと結びます。一方のカルバハルは縞模様を前面には押し出さず、しかし常にそのうちに秘めていたのでしょう。

同じ二面性・二重性であっても、ドナテッロとカルバハルのそれの性格が違うことが、衣裳デザインにも反映されているように思います。

 

 

まとめ

以上、いきなりファッション文化における規範から外れた事例ばかり見てきてしまいました。衣裳から個人の造形を考えようとすると、どうしても特異な点に注目するようになるから、それは仕方がないのですが……本作はファッションに関してもすばらしい作り込みを見せている作品なので、まだまだ考えられるテーマがあるでしょう。

つぎはこの時代の最先端にして規範的な服飾文化を持っていたであろうフローレンス、同じくイタリアの都市国家をモデルとしているであろうヴェネディック、そしてバルトラインやポイニキアの人びとの衣裳のことを検討したいと思っています。

今回は装束と個々人の造形の関係を考えてきましたが、次回は服飾に現れるそれぞれの文化圏のあり方の違いや、その多様性が本作にもたらした効果のことを考えたいと思っています。

自分にできるのかどうかおぼつかなくはありますが、がんばります……

 

→頑張れました!

 

youmustdance.hatenablog.com

 

 

【追記】

せっかくなのでごりごり宣伝することにしました。私にお金は入りませんが作者さまと出版社さまには入ります。

チェロの登場する12巻からは海戦あり陸戦あり、人間離れした天才も数の力で地道に頑張る将軍もあり、しかもやっぱりお金は強いということでとても『将国のアルタイル』らしい物語です。いきなり初期からの重要人物が死にますけれども……。

一巻から読み進めるよりも本作の魅力を体感しやすいところだと思うので、ここまで読んで下さった奇特な未読の方、いらっしゃればぜひ……!

 

*1:現時点では漠然とした印象でしかないのですが……カルバハルの素朴な装いにはどこか、ヨーロッパの民話にトリックスターとしてでてきそうな雰囲気を感じます。ブーツといい、腰に巻いた布といい、こんな装いの人を見たことがあったんじゃないかという気がしてならないのですが、思い出せません。スペインは演劇が盛んな土地でしたし、『将国のアルタイル』は初期から演劇というメディアの効果を大切にしてきた作品です。なにかあるだろうという気はするのですが……思い出したらもう少し補筆するかもしれません。