されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『アンの世界地図』全話再読 (1)

※『アンの世界地図』第一話についてのネタバレを含みますので、ご注意下さい。

 

『アンの世界地図』各話の感想を改めて書いていくシリーズ、まず第一話です。 

 

第一話の扉絵

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1話の扉絵


扉絵はアンとアキの二人。右のアキは青海波の模様の……手ぬぐいなのか、何かの布で頭をつつみ、後ろで結んでいます。着物はところどころに絞りが入っていて豪華、抽象化されていますが波の模様でしょうか。半襟は珍しくレースのものをつけています。表情は一文字に口を結んできりりとした印象。

左のアンはすこし口をあけて、ややぼんやりとした様子。ロリイタファッションのことはわからないのですが、淡色の、華やかなレースをフリルをたくさん重ねたドレスをきています。ゴシックではないことはわかるのですが、クラシックなのかは少しよくわかりません(門外漢の目には十分クラシカルに見えるのですが、当事者からみてクラシックの定義に入るのかがわからないのです)。しかしアンの場合は何といっても頭。マリー・アントワネットがイギリスのフリゲート艦撃沈を記念してゆったという、軍艦を頭にのせたスタイルが特徴的です。

船のアンと波のアキというのは、行動的なアンと受け入れるアキにぴったりの組み合わせです。

 

二人の背後には、古そうな世界地図がうっすらと映っています。ラテン文字が綴られているのはわかるのですが、どのあたりなのか……左上にスカンディナビア半島らしきものが見えるように思いますので、おそらくはヨーロッパ州かと思いますが、定かではありません。

 

 

第一話の流れ

さて、そろそろ物語に入るとしましょう。

口火を切ったのは語り手、「うだつの家」。なんと家が語り手です。語り手のことはにも書きましたので、今は詳しくは触れません。

最初は少し漱石の猫なども意識したのでしょうか、常体で堂々と語りだしますが、すぐに「ごぞんじでした?」とくつろいだ様子で読者に問いかけてきます。

そして今度は「この家(わたし)の中も……今はこの子ども ひとりだけ」「……泣いているの?泣かないでほしい 泣かないで……」と作中人物に向かって語りかけます。つまりこの家は、読者にも作中人物にも語りかけることのできる、特殊な位置にいるのですね。作品世界の中と外のちょうど境界とでもいうべき、実に興味深い位置取りです。その座を家が占めているということがまた何とも示唆的に思われます。

 

さて、語り手であるうだつの家の言葉は、ゴシック体で表記されています。しかし6ページの最初の言葉、「幸せになってほしい」は明朝体です。

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1巻1話・6ページより。

これが前後と全く同じ性格の語り手の言葉であるならば、このように書式を分ける必要はないでしょう。これはいったい誰の言葉なのでしょうか、気にかかります。何度も何度も通読したはずなのですが、にわかにはわかりません。

もしかしたら、この子どもを置いて世を去ってしまった、おかあさん――作中そのように呼ばれることの少なかった人ですが――、彼女が残していった言葉なのかもしれません。しかし素直にうだつの家の思いなのかもしれません。いずれにせよ、「幸せになってほしい」という思いは、読者であるわたしのものでもあります。

 

 

さて、プロローグは終わってアンの登場です。モーセの波のごとく彼女に道を開いた自動ドアをくぐり、ハイヒールの靴音も高らかに半額のお弁当を手にします。2食分、自分と母のぶんの夕食を買ったのでした。512円。

 

それからアンは語りだします。「わたしアンと申します 悪口を言われるのもきらいではありません」これが彼女の第一声でした(声には出していませんが)。

「おかあさまはお酒のみでお役立たず」「おとうさまは遠方の領地(たんしんふにん)においでです」(やっぱりお役立たず)とのこと。わたしは何度も読んだというのに、アンの父親のことを死んだと思っていました。生きていても死んでいても変わらないくらいに、アンのことを少しも気にかけていない父親だったわけです。

 

アンは「今宵はファミリーマアムという者が夕食をまいらせましたので」「姫は優雅にいただきま」す。この言葉を見たときが、最初にこの作品に興味をひかれたときだったと、今でもよく覚えています。

 

「まいらす」というのはそうそう簡単に覚えられる敬語ではありません。平安朝の頃の言葉が中世にはほとんど失われてしまうのは、それらが権謀術数渦巻く宮廷社会に息づいたものだったからです。「べらなり」「らむ」「けむ」「む」のような、目に見えないもののことを推し量り、繊細に使い分けるような機微は、乱世の到来とともに失われてしまったのでした。

言葉は、汎用性の高いものからじゅんに生き残っていきます。「まいらす」はさすがに「らむ」よりは長命を保ったでしょうが、しかし、平成・令和の世には生き残りませんでした。身分社会との関係も深い言葉ですから、相当古式ゆかしい暮らしをお送りの方でないかぎり、日常生活の中で学び取れるものではないでしょう。

つまりこの一言で、アンの言葉遣いは自然自然のうちに身についたものではないのだ、懸命に学んで覚えたのだ、と伝わってきたのです。たった一言なのに、この子は、きっとこのゴミを蹴って歩く家(ハイヒールがしっかり仕事をしてしまっているのが皮肉です)に埋没するまいと、努力して自分を作り変えてきたのだとわかりました。神は細部に宿ります。

 

それからアンは「貴族とドレイ」のことを考えます。ここからは完全に個人的な感想ですが、私は少し前まで、アンの実家がきれいに見えてしまうくらいの住環境にいました。ボロボロの、人前に出るのが恥ずかしいような服を着ることで、自らをすり減らしていました。

今、すこしずつ自分のちからを取り戻しているところですが、それでもおしゃれをするほどの体力までは手に入れられていないものですから、アンの言葉が響きました。

そのあとの「ぼんやりとした”こんなはずじゃない”という感覚」、これもまさに私が今抱いているもので、胸にヒリヒリきます。少し前まで、すっかり麻痺してしまって、今をやり過ごすことの繰り返ししかできなかった間、私は空費される自分に無頓着でした。何の痛みもありませんでした。今のわたしは、少しずつ五識を取り戻しつつあるかのようで、数年前までの自分にあったはずの可能性と、今のていたらくとの落差に気が付きつつあります。

 

作品の流れの方に戻ります。アンは「わずかな貴族の時間」を過ごすために必要不可欠なドレスを、酔った母にぼろぼろにされてしまいました。彼女は「不確かな毎日のなかでこれだけは確かだったクローゼット一個分のわたしの大切な誇り(スタイル)でした」と語り、旅に出ます。またしてもわたしは、「スタイル」は誇りなのだな……と学ばせてもらいました。その通りです、本当にその通りです。

 

かくして舟中の人となったアン、その手には「竹宮杏様」あてのはがきがあります。ここが、アンの戸籍上の名前は「杏」なのだとわかる最初の場面です。

アンははがきの送り主、「徳島のおばあさま」を頼ることにしたのでした。「10年くらい行っていない」父方の祖母です。アンは幼い頃の、「ばぁば」に人形のドレスを直してもらったときのことを思い出しています。その頃は母のことを「ママ」と呼んでいました。幼いころはまだ、貴族という幻想をまとわなくても耐えていられたのですね。まだ、というよりも、幼いからこそでしょうが。

 

しかしそうこうしているうちに頼みの綱のはがきを波間に落としてしまいました。港について呆然とするアンは、折りたたみ式のケータイを取り出します。

『アンの世界地図』は2013年から2016年まで連載された作品で、作中の描写から21世紀の物語であることが確認できます(2巻に入ると、正確に年まで確定します)。連載当時も携帯電話は少し古いものではなかったかと思います。もしかしたらこれも、貧しさを反映したものかもしれません。

 

携帯電話には一件の着信もメールもありません。突如失踪した娘のことを気にかける親はいないようで、アンの表情が翳るのも無理はありません。しかしそんなときに、子どもがアンのことを見て感心の声をあげます。薄く微笑んだアンは携帯も海に捨て、ヒッチハイクに出たのでした。

アンの、聞くべき言葉を聞き、聞くべきでない言葉を自分に寄せ付けない姿勢には感嘆させられます。私は逆で、自分を傷つける人、利用する人にばかり媚びてしまいます。アンはその力を身に着けたくて身につけたわけではないのでしょうが、しかし見習わねばなりません。

 

アンはヒッチハイクを頼む際、「東京から魔法の針をもつ祖母をたずねてまいりました 竹宮アンと申します 16歳です」と名乗ります。

語り始めるときも、アンは読者に「わたしアンと申します」と名乗っていました。フルネームで名乗るにしても、「竹宮杏」ではなく「竹宮アン」なのですね。もしかしたらアンとはAnne なのでしょうか。わかりませんが、とにかくこの名乗りには、所与の自分を拒み、自身で選択したあり方の自分として生きているアンのあり様が端的に現れています。

 

 

場面は移ろって、木々に囲まれた神社が映ります。小学生の男の子たちに憧れのまなざしを向けられている、巫女装束のおかっぱの人。

宮司さんに「アキくん」と声をかけられ、戸締まりを任されました。これが、アキが他人から自分のことを呼ばれる最初のシーンです。

 

アキのことは、宮司さんが一貫して「アキくん」とよぶ以外、作中人物たちはみな「アキ」と呼びます。

さきほど、アンの本名はあくまでも「杏」であり、「アン」は本人が名乗りたい名前なのだということが示唆されました。そのカタカナ表記に注目して類推すると、アキの場合も、本名は違うのかもしれません……もしかしたら「アキ」は名前の一部である可能性もあるかもしれません。というより、その可能性のほうがありそうです。アキのそう遠くない先祖に同じ名の人がいたのですから、しかもその人は、一族の名誉となる人ではなかったのですから。

 

本筋に戻りましょう。巫女のアルバイトを終えたアキは装束を足元に落とし、絹の音を気前よく鳴らしながら着替えます。このときのアキの装いのことは、別記事で書きましたが、今みると着物よりもはなやかな花柄の長襦袢が印象に残ります。昔のものを着ているからこそでしょうが、しかし、アキはこういうおしゃれをする人なのですね、アンとのタイプの違いを感じます。

軽やかなコーディネートで家路につこうとしたアキは、夜さり方の境内で悲鳴を聞きつけました。神だのみをしようとして失敗したアンが、猿に襲われていたのでした。これが記念すべきアキとアンとの出会いです。

 

猿に襲われて手荷物をすべてなくしたアンは、アキの家に泊めてもらいました。ねまきの着方を教えてあげるときのアキの言葉、「きちんとしたお家のお嬢さん」という言葉を聞いて、アンはすこし顔を赤らめています。

 

それはきっと、「きちんとしたお家のお嬢さん」と評価されたことを、社会的なステータスとして喜んだのではないのだろうと思います。そんなものではなかったことを、本人が誰よりも知っているのですから。そうではなくて、生まれ落ちた現実を乗り越えようとしてきた自分の姿を認めてもらえたことが嬉しかったのではないでしょうか。

なにせ東京での彼女は、どうしても半額のお弁当をあさり、ぼろぼろのアパートに帰る姿を人に見られないわけにはいきませんでした。したがって本当の貴族だと思ってもらえることはなく、「ビンボー姫」などというあだなを与えられるのが関の山でした。

 

また全話読んだ身としては、「きちんとしたお家のお嬢さん」などと言い出すアキの方も、どこでそんな言葉を身につけてきたのか気になりました。いえ、自問するまではなく、きっとあの人の価値観や言葉遣いから覚えとったのでしょう。口調からして少し似ているようで、どうにも名状しがたい複雑な、いとしいようなかなしいような思いになりました。

 

 

その後、アンがケガをしていることがわかりますが、彼女は自分よりも靴下の心配で頭がいっぱいです。アキはアンを慰めながら、「ぼくはお嬢様なんかじゃないよ」(36ページ)「ドレイじゃないよぼくは アキだよ」「強いて言うなら”おかあさん”でしょう」(38ページ)と自らのことを規定しました。その「おかあさん」という言葉を聞いて、アンはうずくまって涙をこぼします。今読むと苦しいシーンでした。「お役立たず」のおかあさまのことなど何とも思っていなかったようでしたが、あれは本当にぎりぎりの頑張りだったのですね。

翌朝、ようやくアンは「名前はアン です」(42ページ)とアキに名乗ります。つまりこの二人の間では、「アン」「アキ」が、互いの名前として交換されたのでした。「竹宮杏」ではなくて。

 

こうしてたどり着いたラストシーンで、語り手のうだつの家は「おお……待ち焦がれていたこの家(わたし)の新しい住人がやってきたようだ」「金色の髪のすばらしい女の子だ あの子とすてきな家族になってくれるだろうか」といいます。

全話読んでいる読者としては、なるほどミスリードか、と思うところでもありますし、一方、いや本当に「あの子」とはどちらのことを指しているのだろうと悩む場面でもあります。

1話にしかけられた謎は、再読する読者も楽しむことができるものだったのでした。

 

まとめ

以上のように、視点はうだつの家からアンへとうつろい、最後にまたうだつの家へと戻りました。うだつの家、アン、アキの順で登場しますが、アキにはモノローグはありません。アンとアキのやり取りが、いわゆる神の視点から描かれるのみです。

内容から言えば、基本的な登場人物と舞台の紹介が行われ、アキのセクシュアリティと冒頭の「あの子」はなぜ泣いていたのか、という2つの謎の種まきが行われました。

 

実は本作について、前々から一番よくわからなかったのは『アンの世界地図~It's a small world~』というタイトルでした。

しかし、1話の扉絵をわりあいじっくりと見た今なら、すこしわかりかけている気がします。1話の時点のアンの手元には、航海の頼みの綱である地図がありません。それどころか家も、はがきも、トランクもハンドバッグも持っていません。これからアンという船が徳島の海を渡っていく中で、すこしずつ白地図に世界が描き込まれてゆくのでしょう。

既読の身でありながら、先を読んでいくのが楽しみです。

 

 

さらにもう少し、今回新たに気がついたことを付言しておきます。

一つには、アンの年齢は明かされるものの、アキのそれは不明のままだということです。のちにアンの年齢について言及するシーンなどを見るに、アキは16歳をすでに経験したことがある(回りくどい言い方ですが)ようにも思われるのですが、あまりにも年上なら、あの体格が説明つかないような気もします。ただ線が細いだけかもしれませんが……。

いずれにせよ、アンもアキも学校に通っていませんから、中学校を卒業しているはずです。そしてアキは和裁で生計を立てています。アンはともかく、アキには高校に行くように言う人はいなかったのか少し気にかかりますが、作中何度か「引きこもり」と言われていますし、本人が望まなかったのでしょうか。

 

また、34ページで、アンがアキの「ぼく」という一人称のことをはっきりと聞きとがめていたのにも少し驚きました。のちのちには、これほどはっきりとアンがアキのセクシュアリティについて触れることはありません。

最後まで読むと、アキのセクシュアリティ以上に大きな謎が登場してきますが、初期の段階では、もしかしたらもっとアキのセクシュアリティのことが大きく取り上げられる予定だったのでしょうか。

しかしそれよりも強く感じられたのは、だんだんアンがその問題に直接触れなくなることの意味そのものです。それは、どんな人間としてカテゴライズされるのかということよりも、アキとはどんな人間なのかという方向に、アンのアキに対する理解が深まったことによる変化ではないかと感じました。 

 

それからアンが1話の中で三回も自分の名前を言っていたことにも、今回初めて気がつきました。語り手として読者に一度(アン)、ヒッチハイカーとして見知らぬ親子に一度(竹宮アン)、そしてアキに一度(アン)。

連載ものの物語創作においては、1話では、作中人物のあらましや世界観を、魅力が十分伝わる程度に示すことがおそらく重要になるのだろうと推察します。その中で、重複する情報を三回も伝える行為は、読者に対する情報伝達を目的としたものではないように思います(アンの名前は、はがきによっても示されています)。

 

しかし考えてみれば、三回ある名乗りはすべてその場面での必要性に基づいたものでした。私は自分の名前を一つしか無いものと思いこんでいましたが、私だって、誰かにあうたびに自分の名前を名乗っています。相手によっていろいろな呼ばれ方をしています。何回も名乗るといっても、それは相手が違うのだから一回一回違うことなのだと、この感想を書いていて気がつくことができました。

もちろん漫画の中に描かれたものはその全てが表現なのですから、何もかも現実の社会生活の論理によって説明してしまうわけにはいきません。たとえば繰り返しによる印象づけという効果などもありそうです。

 

そう考えていって、この三回の名乗りで何が起こっていたのか、ふと思い当たりました。「アン」として物語の舞台に登場した少女の名前は、一瞬「竹宮杏」として上書きされかけ、そして再度「アンです」と更新されていたのだ、ということです。

読者というものはたぶん、作品からより深く、多くの情報を読み取ることを是としているでしょうから、名字まで教えてもらったら「よしよし、この子の名前は竹宮アン」とおぼえてしまいそうなものです。

しかし、もう一度、しかもクライマックスの時点で「アンです」と名乗られることで、私の頭には「この子はアン」と刷り込まれました。そしてそのことが、竹宮という家に属するのではない、たった一人のアンであること――そしてアンと対応するアキが、たった一人のアキであることを強調してくれているように思います。

 

こうしてみると本作において名前は重要なファクターになりそうなので、一人称、二人称、三人称には引き続き注意していきたいと思います。なりそうもなにも、何度も読んでいるのにこんな新鮮な気分なのは、とても不思議です。

 

 

それから最後に、もう一つだけ。アンがマリー・アントワネットにあこがれている理由を、以前はただロココのファッション・アイコンだったから、程度にしか捉えていませんでした。しかし、アンがファッションのちからにより貴族という幻想をまとって生き延びている姿を目の当たりにすると、少しアントワネットに対する見方も変わりました。

 

「幻想をまとって生き延びる」などというと大げさなように見えるかもしれませんが、現実を直視してしまったら最後、とうてい耐えられない、生きていかれないというようなこともあるのだと、そういう酷な現実がこの世にはあるのだと、私も少しは知っています。

アンはあの家に生まれ落ちつつ、どうにか生き延びていくために、ファッションを必要としたのでした。一方アントワネットはヨーロッパ中で権勢を誇ったハプスブルク家の娘として生まれ落ち、いずれ政略結婚に出されることが最初から決まっていました。

二人の境遇はまるで違いますが、どうしようもない現実の中で、自分は自分として生きるためにファッションの力を借りた……という見方は、もしかしたらできるのではないかと思います。あの巨大な、首を痛めつけようとでもしているかのような船の髪型を見て、そう思いました。アントワネットがモスリンの農民風ドレスを仕立てて、簡素な離宮を好んでいたことも有名です。

 

もちろんこれは、アンの生き方に強く影響を受けた見方であり、歴史的人物であるアントワネットに簡単に及ばせてはなりません。それはたとえば、細川幽斎の書いた定家様の字をみて、そこから受け取ったものを定家の字に当てはめようとするようなものです。しかしそうではなく、『アンの世界地図』という作品の中で、アンはアントワネットから何を受け取っていたのか、なぜ彼女のことが好きだったのかという視点は、持ってもよいでしょう。

明確な結論が得られるかはともかくとして、これから注視していきたいと思います。

 

 

第一話はこのくらいで切り上げます。

もっと短くなるかと思いきや、1話を読んだというだけで8000字を越してしまいました。この調子では身が持ちませんが、今回得られた観点を大切に、一歩一歩読み進めていきたいと思います。

  

 

【追記】せっかく感想を書いているのだから、もうごりごり宣伝しようと思ってリンクを貼ることにしました。私にお金は入りませんが作者さまと出版社さまには入ります。よろしければぜひ。