されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『アンの世界地図』全話再読(9)

※『アンの世界地図』2巻9話のネタバレを含みます。

 

『アンの世界地図』全話再読感想、第2巻9話です。

あまりネタバレしてしまっては申し訳ないと思って、このシリーズを書くのを迷ったりもするのですが……この作品から距離をおくと、なんだか生活が揺れていく……

 

扉絵

地元の川でしょうか、用水路でしょうか、細いせせらぎで釣りをする子供時代のキヨヒコ、アキ、マサキです。アキは小学生くらいでしょうか、マサキ・キヨヒコよりもひとまわり小さいようです。距離感からして、少しアキはマサキになつき気味、なのでしょうか?

作中かなりレアなアキの洋装が見えるシーンなので、引用は遠慮しておきます。

この場面、遠くに山並みが見えているのが、関東平野育ちとしては新鮮です。ふだんは自分が平野(というより低地)の民であることにあまり自覚がないのですが、少し地方都市に行くと山が見えるので本当に驚きます。

 


9話の流れ

ページをめくってみると、おとなになったキヨヒコと、向かい合うアキの後ろ姿です。

そこからのアキは、今まで見たことのないような驚きの表情をしています。裾がはだけてもいっこう気にしない様子。

私は蛇の目傘というものに触れたことがないのですが、そんなに危険なものなのでしょうか……?傘というと小学生くらいの子供がチャンバラをしているようなイメージです。

キヨ兄は「今も昔もお前っちゅうやつは」「ほんまに」「サイコ……」と言いますが、たしかに読者としても予想外で驚かされました。

この「ズルリ」と傘をひくさまが、アキの緩慢で、それでいて危うい身振りを想像させて好きです。

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2巻9話よりアキの持つ蛇の目傘の「ズルリ」。得も言われぬ怖さがあります。

この場面でアキは「女の子を泣かせるような奴」に対する怒りをあらわにします。アキは第一話でも、涙するアンを泣き止ませたいということを言っていました。

アンはことの顛末に目をつむり、耳をふさいで震えていましたが、アキがアンのことを「ナントカ用語で分類」することを拒絶するのを聞いて目をあけ、「長年かけてできあがる女の子の繊細な心の森を……おおざっぱに伐採して暴いた気になってるんじゃないよ…………」と言うのを聞きながら顔をあげました。

このときのアンの目の輝きがとても印象的です。

 

一方アキはさらに切羽詰まった様子で「アンはいい子だけれど育った環境の都合でたくさん傷ついてきていたから」「他人からの助けがたくさん必要だったんだよ それだけだよ!「……そうじゃなければ昔 キヨ兄がぼくに……」と顔を伏せました。

この言葉の意味がわかるようになるのは、だいぶん先のことです。

 

そこに飛び込んできたアン。アキをおさえていたマサ兄も手をゆるめます。

とにかくアンとアキを送っていった彼の車を、キヨ兄は見送りつつ「……ほんまにあいつは昔から……」とひとりごちていました。

 

車のゆく道にそってか、場面はうつろって「ゴオオオ」と流れる小川を映しました。もしかしてこれは扉絵の、幼馴染三人が釣りをして遊んでいた川でしょうか。

うだつの家も静かに大雨に打たれています。

マサ兄はアンに服のことをあれこれ言ったことを詫び、アキの謝罪をさわやかに受け入れて去っていきました。

 

 

それから再び場面はマサ兄の家に戻ります。お風呂で雨を洗い流してから、アキ殴打事件のことをゆっくり話すキヨ兄とマサ兄。キヨ兄が自分の母親から受け継いでしまったコミュニケーションのあり方のことを、マサ兄が指摘します。「むやみにひとを馬鹿にするやつってひとに馬鹿にされて育って来てたりっていうか……」とのこと、たしかにわかります。

 

マサ兄は「お前のおかんに悪気ねぇの知ってる」そうですが、前話でアンはキヨ兄から「悪意」を感じ取っていました。

つまり要するに、アンに対するキヨ兄の態度も、彼としてはそこまで悪意が無かったつもりだったのでしょうか。おそらく人一倍悪意に鈍感にならざるをえなかったキヨ兄と、人一倍敏感にならざるをえず、その裏返しとして「バリヤー」(2巻7話)を身につけていたアンという組み合わせが、このような顛末を導いたのでしょうか。

そんなキヨ兄をボードゲームで優しくシメるマサ兄。麻雀は人をこんなにも善きものとしてしまうのかと、私も麻雀をせねばと思ってしまいます。

 

 

また雨の中のうだつの家が映って、今度はアンとアキのお風呂上がりです。アンは梅のようなデザイン化された花の浴衣で、初めて見ます。アキは風車の浴衣で、カルピスはカルピスミルク派なのだそうです。私は飲んだことがありません……。

アンはどしゃぶりの嵐の中、「安全なおうちの中でお風呂上がりのカルピス」を飲むしあわせを満喫しています。アキはアンの幸せの基準が下がっているといいますが、私はアンに共感します。

冬あたり、あったかいコートに包まれて風に吹かれるのが、とても贅沢な気がして好きです。

 

それから、アンはアキのことを「王子様が助けにきた!……って感じで格好よかったです」「……女の子に言う褒め言葉じゃありませんね」といいます。照れるアキはいったいどういう気持ちなのでしょうか。

ごまかしつつアキは「そこの川」の水位をチェックします。おそらく先ほど、マサ兄が送ってくれる道中に映った川ですね。今更ながらこの描写の細やかさに気づき、感動しています。

 

アンの方も、アキがパソコンを使いこなしていることに驚きを隠せない模様です。避難準備だけして布団を並べて寝ようというアキを口をあけて見つめ(今わたしは「まもる」という古語のほうを無性に使いたいですが……)、吹き出しました。

 

この夜二人は枕元に二つ風呂敷包みを置き、屏風をへだてて隣りあって眠りました。アンは「嵐の夜に…………お布団を並べて安心できるひとがいるって……いいですね……」といいます。アキは答えませんが、眠ってしまったのか、なにか思うところがあるのでしょうか。このときも風は大きな音をたてていますが、その擬音が白いやわらかな筆致で書かれています。風雨の激しさとアンの安らぎの両方が実によく伝わってきて、漫画というのはやはり言語芸術だと感じました。

 

一番最後にはうだつの家がうつりますが、風に吹き付けられて斜めになってしまっています。もちろん現実にはここまでかしいでしまったわけではないでしょうから、これはうだつさんの心境の表現なのでしょう。新鮮です。

一番最後はうだつの家の「…………………!」というコメントで終わりです。「うだつさん今しゃべる余裕ない」とのこと。

以上本話では、誰のモノローグも登場しませんでした。

 

まとめ

またいくつかの謎がちりばめられましたが、今回はモノローグが不在だったため、それを聞きとがめる人がいません。

読者がどれだけ細部に引っかかることができるか試されているような、今までつけてもらっていた自転車の補助輪を初めて外されたような、そんな新鮮な心境で読みました。

 

後ろから順にさかのぼって場面をみるとしますと、まず水位をチェックしたアキをみて吹き出したアンの笑いのこと。

あれがどういう笑いなのか詳しく説明されるわけではありませんが、筆者はアンが心から安堵したのだろうと捉えています。

アンはマサ兄に「アキの秘密」を餌として示されてバイトに行き、キヨ兄にたきつけられて「アキは何者なのか」と疑問を持ちました。その疑いに、さらにマサじいの「アキは新聞もテレビもみない」という指摘が拍車をかけていました。

 

このうち「アキは何者なのか」問題については、前回の8話でだいぶん自己解決していました。しかし最後のアキの浮世離れした暮らしぶりについてはまだ問題が残っていたはずです。

そこに、アキが文明の利器パソコンを取り出して、ごく普通の人のように水位をチェックし、通販など諸々に活用していることをさらりと教えてくれました。嵐の中でやすらげる屋根の下にいる安堵感とあいまって、ほっとしたのでしょう。

ただし、まだアンは「うだつの家」のことを「自分の家」とは呼んでいません。

アンは色々な経験をしたマサキの家からうだつの家に帰ってきて、家に帰ってきたときのようにほっとしています。しかしそれでも、ここはまだ彼女の家ではないのでしょうか。

 

 

それから、「王子様」「格好よかったです」「女の子に言う褒め言葉じゃありませんね」と言われておおいに照れるアキも、なかなか難しい場面です。

それというのも、この場面は「王子様」「格好よかった」と言われたことが嬉しくて照れているのか、その後「女の子」と言われたことが嬉しくて照れているのか、真逆の二方向に可能性が残るからです。

まだこの問題も答えはでません。

しかしその前のシーンで、マサ兄がアキを羽交い締めにして止めたことは気にかけります。しかもアキは一度はマサ兄の手を振り払い、マサ兄に態勢を変えさせる程度には暴れていました。

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2巻9話より、暴れアキに車中のアンを添えて(嵐の暗い車内で顔を伏せていたアンがアキの言葉にはっとしたときの、光をとらえた瞳がとても印象的で好きなので、つい……)。

マサ兄の体格のよさは、一巻6話の梨畑の説明の時点ですでに語られていました。8話においても改めて、人を殴ってよいウェイトではないことが、本人の口から語られています。一方アキは、アンとさほど変わらない身長なので160cm前後でしょうか。

 

そのマサ兄にここまでさせるアキはなかなかの腕力ですし、最初から迷うことなくアキを羽交い締めにして止めたマサ兄の判断のほうも気になります。

私の身長はおそらくアキに近いです。女性の中でも腕力のないほうですし、人に仲裁に入ってもらうほどのケンカもしたことがないので自分を基準にはできませんが、しかし、私がマサ兄のような人に羽交い締めにして止められるというのは、そうそうない状況のように思います。たぶん肩や腕をおさえられるだけで、十分私は動けなくなるでしょう。

 

アンのことを弁護するアキの瞳は、終盤にはもう涙がこぼれそうな勢いです。アキはアンのことをかばっていたはずなのですが、私の目には、最後に飛び込んできたアンに、アキのほうが守られたように見えました。

これまでは一方的にアキがアンを助ける展開が続いていましたが、3話ですでにアキは打ち解けた様子を見せていました。アキがアンの前では本当にリラックスしていることが、前回はマサじいの口からも語られています。

そしてついにこの9話で、わずかながらにアンがアキを助ける展開が入ってきました。

 

第1話のアンは、アキに助けてもらって抱きついていました。

しかし一巻の最後の7話のアンは、アキに「戦闘服」を用意してもらっても飛びついたりせず、ただ正座して、ぎゅっと服を抱きお礼を言いました。

そして今回は、同じアキに抱きつくのでも、アキにすがりつくのとは全く逆の……自らアキの盾になろうとするような抱きしめ方でした。

アンは着々と成長していますし、この二人の関係もまだまだ変化してゆきそうです。

 

 

さらにもう少しだけ、考えてみたいことがあります。

まず、「長年かけてできあがる女の子の繊細な心の森を……おおざっぱに伐採して暴いた気になってるんじゃないよ…………」というせりふ。

これは少女漫画というこの作品のジャンルとも関わってうまれたせりふなのかもしれませんが、私の目には不思議で目にとまりました。

アキは、女の子の心の繊細さや、女の子の心が必要とする長い時間のことを知っているのでしょうか。

 

私自身はあまり「女の子」ということにこだわりがないほうで、見た目や性格は「女の子らしい」と言われがちなほうだったのですが、中身はそんなことはありませんし、気にしたことがありません。

私の中身が女の子らしくなくても、外身が女の子らしくても、どちらも私には特に意味がありません。自分が美しいと思うものを愛し、自分に似合う装いを選ぶだけです。

その点この作品は「女の子」というものをとても大切にしていて、かといってジェンダー規範の強化に結びついてしまうようなところもないので、稀有なバランスだと感じています。いつも新鮮です。

 

ついでに、登場時のアキも私には目新しいものでした。一見ご機嫌そうに歌を歌いながら現れましたが、なにかその歌には意味があるのでしょうか。

歌っていたのは「あめあめふれふれ」の歌です。確かにアキはあのとき蛇の目を手にしていました。アキとしては、自分がアンの「母さん」のつもりだったのでしょうか。しかしアンには「王子様」と映ったわけです。

アキは「王子様」なのか「おかあさん」なのか、少しずつゆれているのかもしれません。

 

 

何より私が気にかかるのは、そのアキの感情の表出の仕方です。アンは「びっくりでしたけど」と軽く言っていましたが、初読のときの私は、びっくりどころではありませんでした。

あんなに物腰穏やかだったアキが、こうまで目をいからせて暴力的に振る舞うとは……

このことに関しては実は二年前ブログを書いていたときにも書きました。もう少し、アキのルーツのことなどが明かされるところまでいってから、詳しく書ければと思います。

 

 

9話はここまで。ネタバレになってしまわないよう文量を下げたつもりですが、なぜか総字数が今までとあまりかわりません。怪奇現象ですが、怪奇現象にも負けずにアップしたいと思います。

 

【追記】せっかく感想を書いているのだから、もうごりごり宣伝しようと思ってリンクを貼ることにしました。私にお金は入りませんが作者さまと出版社さまには入ります。よろしければぜひ。