されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『アンの世界地図』全話再読(13)

※『アンの世界地図』2巻13話のネタバレを含みます。

全話再読、第十三話です。

第二巻も残すところあと二話となりました。

ネタバレすまい、すまいと思っているのですが大事なせりふが多くって……

人物の登場順や情報開示の手順など、どうしても確認しておきたいので詳しくなりすぎてしまいます、困ったものです。

 

扉絵

日本列島上の、デフォルメされたアンとアキ。アンの移動の模様が→で示されています。前回の旅という所感は、間違っていなかったのかなと思って少しうれしくなりました。

アンはいつものドレスに帽子姿です。アキは風車の模様のゆ……かただと思っていたのですが、ここでは半襟をつけています。実に自在な着こなしでよいですね。本編ではしばらく出番がないので、ここでアキ成分を拝んでおくとしましょう。

 

 

第十三話の流れ

前回の驚きの引きからの続きです。口元で手を組んで考える「王子様」を前に、アンは冷や汗をかきながら状況を分析しています。

困った末にお生まれの年を確認すると「1888年ですが……」とのこと。

それに対して「幽霊さんならこわくないです!この世でいちばん怖いのは生きている人間だって母が言っていました!」「死んだ人間はなにも怖くない……って」と笑顔でいうアン。

 

アンの回想に、2コマだけですが葬儀の場面が映ります。

ずっと私はこのシーンをアンの父親の葬儀のように思い込んでしまっていたのですが、この全話再読を始めてみて、第一話で彼が生きていたことを思い出しました。

となるとこれは、別の縁者の葬儀ということになりますが……中学生くらいのアンは涙ぐみながら、左に座る母らしき人の横顔(とても美しいです)を見上げています。

アンがその死に涙する程度にはちかしい人で、アンの母に「死んだ人間はなにも怖くない」と言わしめるような人となると……たとえば、アンの母の父母、兄姉あたりが考えられるでしょうか。あるいは、今の「お役たたず」(一巻第一話)の父とは別の父が、アンにはいたのかもしれません。

 

それを聞きながら、「………………そう…でしょうか…」と考えている「王子様」あらため「幽霊さん」。

先行きを知っている読者としては何を考えているのか気になるところです。

しかし彼は気を取り直してアンに生まれ年を尋ねます。1998年生まれの16歳だそうなので、作中の現在は2014年ですね。

「幽霊さん」が自分の曽祖父くらいの世代だと気づいたアンは、アキのご先祖に心当たりがないか尋ねました。幼馴染のマサキが、アキはドイツ人の血を引いていると言っていたのだと、「うだつ」のある大きな家に住んでいるのだと……

幽霊さんは「ひいおじいちゃんくらい」と言われたことに困惑していましたが、アンの言葉を聞くと目を見開いて、涙を流します。

「うだつの家……」「……幼なじみのマサ…………」それからドイツ語で自嘲した彼は、「……思い出話を聞きますか?おそらくあなたの質問の答えがあるかもしれない」と、昔語りをはじめました。

あ~やっぱり夢幻能~~~!!

 

 

ここから始まる「幽霊さん」の語りでは、コマの枠線の外の背景が黒く塗られています。

舞台は1914年11月の徳島、アンの生きる今のちょうど百年前。俘虜収容所に歩みをすすめるドイツ兵たちの息はもう白くなっています。「幽霊さん」の記憶の中で、最初に登場したのは大尉でした。

大尉と日本兵とのもめごとをみて、通訳を買って出た「幽霊さん」。

「所長」の快諾を得て通過してゆく大尉を、「きれいな男だ」「カイゼルは外交官オイレンブルクとの醜聞が有名な方だがいやいやいや…」と自制しつつ見送ります。「幽霊さん」の大尉の第一印象は、どうやら容姿のことだったようでした。

 

「所長」こと松江所長に名をたずねられた「幽霊さん」は、「ジャン・マイズナーと申しマス」「このたびの青島防衛戦の召集に応じて三か月前に兵士になりマシタ」と応じました。三か月前まで、彼は横浜のドイツ商社で働いていたのです。

日本語の腕を見込まれたマイズナーは日本語通訳に任じられました。「日語通訳」の腕章に、日本人記者たちが一斉に群がります。

 

 

場面は移ろって収容所内の自室らしきところ、木製の二段ベッドと机が映ります。同室なのでしょうか、ドイツ兵ユーハイムが大忙しの通訳さんをなだめました。彼はもともと青島のお菓子職人だったとのこと、マイズナーと同じく民間人然とした振る舞いで、戦争中の、しかも囚われの身であるという危機感をあまり感じさせません。

 

それに対し、次に登場した兵士は好戦的でした。

海兵服姿の黒髪の彼は、収容所内の酒保らしきところで大尉に絡んでいったようです。「糞っくらえ!俺は犬が嫌いだと言っただけだ 特にカイゼルに尻をふる陸軍の犬はな!」「糞(シャイセ)!貴族!収容所!糞!糞野郎!」絶好調です。

 

ケンカの仲裁に駆り出されたマイズナーは「とても通訳できない」と困りつつ、大尉にフォローを入れました。この場面、さりげなくカイゼルの犬が大尉に抱っこをおねだりしていてかわいいです。

 

大尉は将官らしく冷静に振る舞いつつも、「私も苛ついている」「こんな極東で……カイゼルのお役にも立てず……糞ッ」とひとりごちます。

見送るマイズナー氏は「ひとつ勉強になった 眉目秀麗な貴族の男が発音すると「糞」すらも美しい」と感嘆していますが、大尉はどれだけ美しいのでしょうか。貴族というのは、それほど特別な存在なのでしょうか。

これはマイズナー氏をちゃかしているわけではなく(感心しすぎだとは思いますけれども)、現代日本と帝政ドイツとの文化や社会の違いでもあろうと思うので、少し勉強したいところです。

 

 

そして場面が切り替わる時、建物の様子を鳥瞰で描いたコマが一つ入ります。

ああ、やはり、バ……!!!わたくし大興奮ですが、それはさきざき別の記事に書くとして、今は先に進みます。

 

 

その後どれほど時間が経過したのかわかりませんが、俘虜からの苦情陳状要望を受け取って疲弊しているマイズナーが描かれます。ベッドが二つ映っているので、この部屋には少なくとも四人が寝起きするようです。

そこに現れたユーハイムは、松江所長に呼ばれて、バウムクーヘンを焼くよう頼まれたと喜んでいます。

ドイツ人俘虜のストレスを心配した所長が、せめて食生活は故郷と同じものをと配慮したのだそうで、ドイツ人俘虜のうち、ソーセージ、ビール、家具などさまざまな職人が呼ばれたとのことでした。

 

「すごいな」「おもしろそうだな」と素直に感嘆するマイズナー。彼もユーハイム同様穏やかそのもので、先ほどのケンカの中で、大尉や海兵が見せたようなイラつきは見せません。

それはもちろんつい最近まで日本で働いていた民間人だということがあるのでしょうが、それにしても性格が素直そうです。

よだれを垂らして「おもしろそうだな」と言っているコマの背景にはプレッツェルバウムクーヘン、ソーセージ、あとケーゼのようなものが映っています。日本語は完璧な彼ですが、「おいしそうだな」の間違いですねマイズナーさん?

しかし確かに、先ほどのケンカの場面でも、すでに酒保と思われる設備があったうえ、洋酒と思しき瓶がいくつもありました。松江所長、準備がよいです。

 

 

ここでアンが口を挟みます。バウムクーヘンを焼く「ユーハイムさん」の今後を尋ねたのです。マイズナーさんの幽霊いわく、「確かに彼は休戦後日本に残りマシタが……」とのこと。アンは「すごい!!!!歴史がつながってる!」と大喜びです。

これはさりげないようですが、大事なセリフかもしれませんね。アンが「幽霊さん」呼びを続行しているのも、ささいなようですが覚えておきたいところです。

 

アンに答える幽霊マイズナーのせりふの方にも、大事な情報が詰まっています。俘虜は1000人、うち800人ほどが本職の軍人ではなく、ドイツビール、パン、ソーセージ作りのほか、オーケストラを編成したりもしたとのこと。

「自分たちは敵国に囚われた俘虜で 母国の戦況は決して良くはなく……それでも」「…毎日をこまごまと楽しみで満たしてただ暮らしてゆく 楽しみと不幸は”別腹”デスネ」「大きな意味では誰もが不幸でしたが……楽しかった」

これは、本作全体にも関わってくるようなセリフです。

アンとアキの暮らしも、きっとそうなのでしょう。

 

 

場面は切り替わって、また回想へ。士官の兵舎に、カイゼルから賜ったダックスフントと一緒に引きこもる大尉を、マイズナーさんが見舞います。前の場面からはそれなりに日数がたっているようですが、カイゼルの犬、とにかくかわいいです。

大尉はヴァルター・フッペ二等兵曹――先日の海兵に絡まれて迷惑しているのでこもっているのだそうです。

大尉は「戦況へのいらだち」を自分にぶつけているのだろうと分析していますが、マイズナー、ユーハイムなどは「戦況へのいらだち」は二の次のようです。「戦況へのいらだち」を大尉自身が抱えているからこそ、そう考えたのでしょう。

 

そしてだからこそ大尉はひきこもっていたのでしょうが、カイゼルの犬にガブガブされながら言ったマイズナーの慰めを見事に真に受けます。

マイズナーにとっては「何気なく口にしたお決まりの文句」でしたが、カイゼル大好きの大尉には劇的な効果をもたらしました。すこし呆れながら、マイズナーは大尉を連れて、俘虜収容所の中を案内します。

これが同時に読者に対する案内でもあるわけですね。

 

 

そして登場したのが我らが学者先生、ゾルゲル予備少尉です。講演会を終えてドイツビールをぷっはーしているゾルゲルとマイズナーはすっかり仲良しの模様。さりげなくここで、マイズナーが上等兵であったことが明かされます。

最初は「そう気安くしては軍の規律が……」と顔をしかめた大尉でしたが、ゾルゲルとマイズナーに説得されました。その場に適応するマイズナーと、論理的に説くゾルゲルの違いが楽しい場面です。

そしてついに、大尉は「私はハインリヒ・フォン・シュヴァンシュタイガー ……どうぞ普通に接してくれ」と名乗りました。

 

 

そこからあれよあれよといううちに、人気女優になってしまったシュヴァンシュタイガー。未読の方でこの記事を読んでくださっている方にはわけがわからないと思うのですが、シュヴァンシュタイガー大尉本人がわけがわからないままに熱演しています。

なお、ここでゾルゲルがぶつ演劇論はとても大切なせりふなのですが、今書くわけにはいかないので別記事で書きます。

目つきのきっついオフィーリア大尉を袖から見守っていたガートルード王妃ことマイズナーが、舞台に見入るヴァルター・フッペの姿に気づいたところで、一度回想は終わりました。

 

ぽかんとしているアンに、マイズナーの幽霊はここまで登場したうちの誰かが「きみのアキのひいおじいちゃん」だと言います。

アンがびっくりしたところで、13話は閉幕です。

 

まとめ

ドイツ人俘虜収容所編に入って二話目ですが、はやくも盛りだくさんでした。

鍵となる人物はすべて登場した上、マイズナーとゾルゲルの口から、作品の根幹に関わるような重要なセリフが出ています。

アキの秘密、バックグラウンドについても手がかりができた上、アンの過去についてもちらりと示唆されました。

 

アンの過去のほうは、論理的には読み取るのが難しそうですけれども、アンの母にも複雑な事情があっただろうことは想像できます。

アキの秘密はもちろんまだまだこれからです。

 

収容所のドイツ兵としては、鍵になる人物がマイズナー含め四人登場しました。それなのにごちゃついた印象がないのが見事です。一度に情報を提示するのではなく、作中人物が物語世界になじんだタイミングで名前を出す仕組みだからでしょうか。読者としても「そろそろこの人の名前が知りたいな」と思ったあたりで名前が出るので、すんなり入ってきました。

マイズナーという視点人物を用いた情報開示の手順が本当にこなれています。

 

そして何よりもアーダルベルト・ゾルゲル予備少尉!彼のせりふはおちゃらけているようでいて、いちいち示唆に満ちています。知性を隠さない道化のような、彼自身がずっと演技を続けているかのような……ちなみに、彼のフルネームがでるのは一番最後のコマが最初で最後だと思います。フルネームが何度も出てくる人物との違いを考えなくてはならなさそうです。

 

さてその最後のコマには、舞台の緞帳を思わせるような演出が入っています。

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2巻13話より引用

ここで語られる物語自体が、マイズナー氏による過去の再演なわけですし、その中の人物であるゾルゲルの言動も芝居がかっています。そしてそのゾルゲルが監督するお芝居に、大尉やマイズナーたちが出演し、フッペが見入っているわけです。

この重層的な演技性は、きっと本作の大事な鍵なのでしょう。

 

筆者は『アンの世界地図』における演劇についてまとめて考えたいのですが、書こうとするとどうにも自分の理解不足にゆきあたったため、この全話再読をはじめました。

謎の一つは実は前回バ……!の気づきによってある程度わかったのですが、まだ自分の中で解決せねばならないことが残っています。

次回以降も、丁寧に読んでいきたいと思います。

 

【追記】せっかく感想を書いているのだから、もうごりごり宣伝しようと思ってリンクを貼ることにしました。私にお金は入りませんが作者さまと出版社さまには入ります。よろしければ。