されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『将国のアルタイル』と戦記と軍記物語

※『将国のアルタイル』14巻までのネタバレを含みます。

 

戦記とは

将国のアルタイル』は、一般には「戦記物」と受け止められているようだ。

たしかに本作は、ルメリアナ大陸という架空の大陸に巻き起こった大戦の模様を描いている。「戦争」を「記した」ものであることは間違いない。

 

ただ、「戦記」という言葉の定義を、私はよく知らない。Wikipediaを一応参照してみることにはみたが、日本の最古の例が鎌倉時代の『平家物語』だとしている時点で、信頼してはならない記事であることは十分わかる。『平家物語』を戦記にカウントして良いならば、平安時代の『将門記』『陸奥話記』もカウントされてよいはずだ。

ほかの記述を見ても、どうやら『平家物語』の成立・享受の過程も知らずに書いているようだ。

この記事を書いた人物は、

  1. 近接する概念であるはずの軍記物語のことをよく知らない 
  2. どこの図書館にでも入っている古典の全集の解説を見ればすぐにわかることを調べていない
  3. 上記の状態で、まがりなりにも百科事典を名乗るサイトの項目を書くことを恥と思わない、責任を感じない 

ようであるから、私はこのページを信頼するわけにはいかない。無知であること自体は何も悪くないし恥ずかしくないが、己の無知に他の人を巻き込むのは罪だろう。

 

それではせめて私は、最低限のところを調べなくてはならない。

「戦記」という用語は、筆者の認識では、前近代の日本の書物には用いない。日本国語大辞典を引いても、あがっている用例は以下の三つである。

 

*布令字弁〔1868~72〕〈知足蹄原子〉六「戦記 センキ グンショボン」

*国文学読本緒論〔1890〕〈芳賀矢一〉三「源平盛衰記平家物語、保元平治物語等の諸戦記相踵いで世にいでたり」

田舎教師〔1909〕〈田山花袋〉四八「戦記にも書いてありましたよ」

 

 

日本国語大辞典は初例主義をとるから、項目執筆担当者が見つけることのできた最も古い用例を掲げている。ここでは、明治元年から刊行された官許の漢字・漢語辞典、『布令字弁』にあるのが最も古かったということになる。日本国語大辞典の調査の範囲では、前近代には見られない言葉だった、ということだ。

あがっている用例のうち前二つは、「戦記」と「軍書」「軍記」を明確に区別していないようであり、「戦記」の例として古典をあげている。近代以降の人が、古典にあとからジャンル区分を与えた場合は、軍記物語が「戦記」とされることもあるようだ。

 

 

しかしこうした認識は、明治のころならばいざ知らず、現代では通用するまい。

日本大百科全書を引いてみると、「戦記」(小田切秀雄)項には次のようにある。

 

戦争の記録。記録としては事実の報告や資料の提出や統計や図版までを含むが、記録がおのずと文学的な表現になっている場合をいう古代ローマカエサル(シーザー)が、故国の政府に伝えるために書いた彼のフランス征服軍の戦闘報告である『ガリア戦記』は、そういう優れた戦記の代表的なものである。またシラーが晩年に書いた『三十年戦争史』、スメドレーの八路軍従軍記録である『中国は抵抗する』なども優れた戦記といえる。日本では大岡昇平の『レイテ戦記』も、そういう性質に近い。

 一方、戦争叙述が文学的意図で書かれることもあるが、それらは英雄叙事詩とか騎士物語、軍記物語、あるいは近代のものは戦争文学などとして、いちおう区別される

 

傍線は筆者が付したものだが、この説明はかなり妥当なものではないか。

論文・雑誌記事のデータベースciniiで「戦記」の検索結果をみてみたところ、上記の小田切氏の整理は実態にあったものだとたしかめられた。小田切氏のいわれるとおり「いちおう」、「戦記」と軍記物語などとの区別はできそうだ。

 

軍記物語も戦記もともに実際に行われた戦争を題材とする。だが、後者が事実をなるべく正確に記録しようとするのに対し、前者は作品としての完成度を追求するために、事実に反する脚色も積極的に行う。

ひとまず、こう理解しておきたいと思う。

 

 

将国のアルタイル』は戦記なのか 

それでは『将国のアルタイル』は戦記なのか、それとも軍記物語に近いものなのか。

将国のアルタイル』は架空の大陸、ルメリアナ大陸を舞台とする。つまりフィクションなのだから、「文学的意図で書かれ」たもの以外の何者でもないだろう。小田切氏の整理に即すならば、フィクションであることと、事実の記録である「戦記」であることとは両立しない。

しかし、読者が所属する世界ではフィクションでも、作中世界においては「戦記」であるという状態は、成立する。それを読んだ読者が、これは作中世界における戦争を記録した戦記なのだと受け止めることは、十分に可能だ。

 

だからもし、 『将国のアルタイル』が「戦記」を名乗るのであれば、作品で描かれていることは脚色された「お話」ではなく、あくまでも「記録」だと受け取るべきなのだろう。ルメリアナ大陸が架空の大陸であることを信じると同時に、作中で描かれたことは、なるべくありのままに保存・再現された事実なのだと、信じるべきなのだろう。

 

実際のところ、私は電子書籍で読んでいるので、帯や雑誌の煽り文などを見たことがない。 それら、『将国のアルタイル』という作品がみずから「戦記」を名乗ったことがあるのかわからない。

結局作品のあり方から考えるほかに術を持たないのだが、結論を先に言ってしまえば、戦記とみてよいのではないかと思う。

 

将国のアルタイル』の語り手の口調は平淡であり、トルキエの暦とバルトライン帝国の暦を併記する方針をとる。その事実からは、なるべく中立公平な立場から事実のみをつづろうとする語り手の姿勢が読み取られる。

以前、『将国のアルタイル』の語り手がトルキエの立場から語っている可能性があることを述べたが、もしこの語り手が社会的にトルキエに属していてもなお帝国暦を併記しているならば、それはじつに公平な態度だろう。

 軍記物語のように語り手みずから作中人物に肩入れしたり、劇的な美文で盛り上げたりするような描写もない。

おそらく『将国のアルタイル』は戦記に近い作品として理解できる。

 

 

ただし『将国のアルタイル』は日本の漫画作品である。いかに漫画というジャンルが若かろうと、異国を舞台にとっていようと、日本語が背負っている文化から自由になれるわけではない。

たとえば5音・7音のリズムを心地よく感じてしまう感性は、日本列島に文字が伝わる前の時代にルーツを持ち、和歌・連歌俳諧という日本語史でもっとも巨大な文芸の流れに紐づいている。そこから自由になるのは簡単ではない。

 

将国のアルタイル』が日本列島に生まれた、日本語の作品であることは疑えない。第一の読者として想定されているのは日本在住の、日本語使用者だろう。

となれば戦記的な本作においても、日本で古来愛されてきた物語の型――たとえば軍記物語と通うところがあっても、不思議ではないだろうと思うのだ。

軍記物語というとかたくるしいが、平曲は長年娯楽であり鎮魂である話り物として楽しまれてきたのだし、江戸時代には太平記読みというものも現れてくる。

現代でも毎年大河ドラマが放送されているように、古から今まで、ずっと愛されてきた庶民的な、娯楽的な物語の型だ。

 

そこで特に筆者が注目したいのは、12巻から14巻である。帝国常備軍とトルキエ将国の天上の都をめぐる戦いを描いた巻々だ。本記事では、この一連の戦いのうち、陸上で行われたものをまとめて「天上の都戦役」と呼びたいと思う。

 

 

敗者によりそう物語

さて、本作の主人公はトルキエのマフムート、天上の都戦役を制する者である。

ここまでの物語はおおよそ彼の視点、立場に沿いながら進むことが多かった。ところがこの戦に関しては、そうとは限らない。

 

一連の陸戦において、最初に帝国常備軍と交戦したのは、①トルキエのカリル将軍率いる遠征軍だった。彼が帝国の新戦術に敗れたのち、②マフムートが敗残兵を率いて常備軍本陣に奇襲をかける。それからマフムートたちは③常備軍をムルムリョ盆地におびき寄せて、④敗走する彼らをエスパーダに追い詰めた。

 

この一連の描写の視点が、どちらの側にあったのかふりかえってみると、①の描写の視点は、トルキエ側にある。カリル将軍と側近の会話など、常備軍側はけして見ることのできなかった場面を描いている。

しかし②では、最初こそ敗残のトルキエ側の視点で始まるものの、糧食を奪還する奇襲作戦がうまくいくと、帝国兵の目線の描写が増える。

③も同様に、序盤は行軍するトルキエの目線から描かれ、カリル将軍討死の際の状況が再現される。ところがトルキエと同盟諸国の策が明らかになると、今度は策にはまった常備軍の視点に沿った描写が増える。

その後の④においては、描写は最初から最後まで常備軍の目線になる。彼らはエスパーダに詰めていた想定外の戦力に驚き、背後から迫るトルキエのひづめの音におびえる。 

要するに、一連の戦の視点はゆれうごきつつ、次第に敗者である常備軍によっていくのだ。

 

特に象徴的なのは、深夜追撃するマフムートが、ついに常備軍の背をとらえた場面だろう。

闇夜を進む常備軍と対照的な真っ白い背景の中に、金貨で飾られているのだろう房が優雅になびき、トルキエの旗が悠然と翻っている。不安げに声をあげる将兵をよそに、金貨は涼やかな金属音をたてる。

有情の人間に対する無情の装飾の対比は美しく、恐ろしく、常備軍の絶望を一層印象付ける。そのあと満を持して登場するトルキエが、もはや悪役に見えるほどだ。

 

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14巻73話より引用

 

 

次第に敗者によっていく視点のあり方は、あるいは必然的に要請されたものなのかもしれない。読者からすると、最初から策がわかっていたのでは意外性を感じにくいからだ。策を披露したときの驚きを演出するには、策にはまる側の目線で描くのが一番だろう。

しかしそれだけではあるまい。

 

ムルムリョ盆地・エスパーダで散ってゆく帝国常備軍将官たちは、みなおのおのに有能で魅力的な人物として描かれている。登場シーンはわずかだが、皆それぞれの個性が伝わる描写が取られていた。そうした描写が輝くのは、やはり散り際である。

人間味あふれる姿を見せていた彼らが勝ち目のない戦に挑んでいく姿は、いやがおうにも読者の同情を呼んだだろう。少なくとも私の同情は得た。

一方勝利したトルキエの武将たちが、個として活躍する描写はほとんどない。大将の首を獲ったのはマフムートだが、マフムートの武勇を印象づけるような描かれ方はされず、むしろ、悟りきったようなピノー大将の様子にずっとスポットがあたる。

 

 

こうした、敗者によりそうまなざしも、散ってゆく敗者のそれぞれにスポットを当てようとするのも、軍記物語に特徴的な描き方のように思う。

平家物語』が敗者である平氏一門に対して同情的な物語であることは広く知られている。とりわけ平氏一門が都から落ち延びて西国に逃れてからの『平家物語』の筆は死にゆく一門の姿を美しく、同情すべきものとして描こうとする。

戦場にあってもなお美しく上品だった維盛、経正などもあれば、見事な奮戦を見せた教盛、全てを見届けた知盛など。宗盛のような例外もあるけれども、基本的には一人一人の死に際の見事さを、史実以上に強調して描いている。

将国のアルタイル』の常備軍は大将、軍艦、そしてほとんどの軍団長を失うが、彼らの死に際もそれぞれに見事なものとして描き分けられていた。

 

 

強者となりゆくマフムート

さきほど私は、天上の都戦役の描写の目線が、次第に敗者によっていくのではないかと考えた。

しかしより正確を期すならば、弱者によっていくとみたほうがよいだろう。そう考えるならば、12巻以前についてもあてはまるのだ。

 

まず序盤(1〜2巻)のマフムートは新米の将軍である。会議では怖い先輩にいじめられ、ロットウルムにもいじめられ、踊り子にも同郷の先輩にも呆れられる。立場はもちろん実力としても弱かった頃だ。

なお、弱者というのは、物語の中で深く関わる者と比べたときの相対評価である。

 

3巻以降のマフムートも状況に翻弄され、出会う人々に出される難題を打開し続ける日々である。マフムートは旅をして回っているから状況にその場で対応するしかない。いつも後手に回り、弱い立場からの挽回をはからねはならなかった。

11巻のタウロ市長とのやりとりにも明らかだったように、そもそも小柄で若いマフムートは、最初から不利なのだ。

 

そんな中、12巻で出会った天上の都のカルバハルは、(作中で詳しく触れられた中では)初めて二つ返事で協調姿勢をとった国家元首だった。

マフムートはここにきて初めて、不利な状態からのスタートから脱却できた。 もちろん戦況は一進一退だが、状況に対して受け身にならざるをえない立場からはもう脱している。

 

そのことと、天上の都戦役で、帝国側に視点をおく描写が増えることは、ある程度軌を一にする現象なのではないだろうか。

マフムートが強さを得ていったことで、弱者によりそう眼差しはマフムート専属ではなくなる。だからこそ、物語は帝国にも触れていくようになったのではないか。

そのことは、視点を変えれば、帝国軍と反帝同盟の戦力差が小さくなっていることの現れでもあるだろう。 14巻以降は、次第にトルキエと帝国双方が詳しく描かれるようになっていくのにも納得する。

 

 

勝者の痛み 

ただしマフムートは、強くなっていってもおごらない。勝敗がほぼ決しても笑顔を見せない。

もちろん常備軍を倒したところで、天上の都の包囲を解かせなくては戦は終わらない。

その上天上の都戦役はカリル将軍の弔い合戦なのだから、当然といえばそうかもしれないが、他の将官たちにもあまり喜ぶ様は見えない。 むしろトルキエ側には、殺戮者たる自分のことを省みる描写の方が目立つ。

 

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14巻73話より、近隣の住民やカラスに襲われる帝国兵と、見守るアフメット軍人・クルト将軍

 

ここでもう一度、『平家物語』を参照してみたい。

平家物語』覚一本の名場面として知られるシーンに、平敦盛を打ち取る熊谷次郎直実の場面がある。

それまでの場面で、熊谷は手柄と名声をたてることに熱心な、勇敢な武士らしい武士として描かれてきた。その彼が、我が子と年のかわらない若武者を見て、殺すことをためらってしまう。

状況からいたしかたなく討ち取るものの、のちに直実は仏門に入って敦盛を弔うことになる。一方敦盛の態度は実にあっさりと、潔いものだ。こうした、敗者よりも勝者、殺された者よりも殺した者が精神的に苦しむ描写は、軍記物語に多い。

 

 

こうした、敗者よりも勝者が負った痛みを描き、死者以上に殺した者の苦しみを描く姿勢は、『将国のアルタイル』の天上の都戦役にもみてとれるように思う。

たとえばエスパーダに行軍する常備軍の隊列の中にいた兵士の一人リュカは、ひどく負傷している。そのためか、鐘の都で虐殺した人達の幻影に悩まされていた。

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14巻73話より、戦友の肩を借りて進むリュカ。常備軍の隊列をはずれかけた彼が歩む道は、カンパーナの人々が歩む道のほうによってしまっている。実際その後まもなく、リュカも死者の仲間入りをすることになる。

 

自分たちが殺した人間に追われているのは、帝国兵だけではない。民間人の虐殺を行ったわけではないマフムートも、帝国兵たちの影を引き連れている。

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14巻73話より、帝国兵の影をひきつれるマフムート。兵士たちはあるいは胸を袈裟斬りにされ、あるいは首をはねられている。

 

リュカとマフムートの違いは覚悟の有無なのだろうが、覚悟があるからといって、痛みがなくなるわけではないだろう。

 

 

天上の都戦役でのマフムートの勝利は実に鮮やかだった。しかし読者のほうとしても、素直にトルキエの大勝に酔うことはできなかったのではないだろうか。天上の都に帰還したマフムートを待ち受けているものが何であるかを考えれば、なおさらである。 

 

 

戦記と軍記物語のあわいで

一度ここで小括しておく。

将国のアルタイル』は、全体的には戦記的な、禁欲的な描写態度をとる作品である。しかし天上の都戦役においては、軍記物語的な特徴を持つ展開がとられた。そのことは読者に対して、敗者である帝国常備軍への同情を誘い、マフムートたち勝者の痛みを感じさせる効果を持っていた。

大体このようなところを考えた。

最後にもう少しその先をみておきたいと思う。

 

 

 

私が天上の都戦役と呼んだ一連の戦いは、単行本12巻から14巻にあたる。

12~14巻が描いた時期はちょうど帝国に相対する同盟ができあがった頃であり、初めて本格的に帝国と反帝同盟の軍勢がぶつかった頃だった。

その後は、帝国とトルキエとの間に何度も戦が重ねられていくことになる。マフムートはその最前線に立って戦い続ける。

 

マフムートにとっての仇敵が帝国常備軍および両度拡張をめざす政治家であることはたしかだ。そしてその成り立ちからして、帝国常備軍とは相容れない。

もちろん、マフムート本人は復讐心に凝り固まっているわけではない。しかし読者の方は、マフムートのこれまでを見てきている。長期間に渡る連載についてきている読者は、多かれ少なかれ、マフムートを応援しているからこそ読み続けているのだろう。 

そうすると、どうしても読者の目線はマフムートによりがちになる。そして読者が彼の目線にばかりよってしまうと、合戦の受け止め方が一面的になってしまう。

マフムートの勝利ばかりが望まれるようになってしまうと、作品の方でも、読者の声を無視できなくなってしまうかもしれない。

 

 

しかし、読者が帝国常備軍側に同情できるようになると、戦局への見方が多面的になる。マフムートの勝者・生者としての苦しみを目の当たりにすると、展開に対する受け止め方が複雑になる。

ただマフムートの快進撃だけを待ち望みながら15巻以降を読むのと、帝国側の事情を考えながら15巻以降を読んでいくのとでは、物語の立体感がまるで変わってくるだろう。帝国の内情が明かされていく17巻への関心の寄せ方も変わるだろうし、帝国にルーツを持つことが示唆されているトルキエの重要人物についても、受け止め方が変わる。

その画期点となったのが、天上の都戦役のクライマックスである14巻ではないかと筆者は思う。

 

軍記物語的な要素を取り入れ、帝国軍人への同情を誘ったことは、ただ天上の都戦役の物語の中でのみ効果的だったわけではない。ただカタルシスをもたらしただけのものではない。きっと『将国のアルタイル』15巻以降の物語にとっても、必要な布石だったのだろう。

 

 

 

だが、15巻以後の物語が軍記物語的な、誇張や脚色を多くとりいれた情緒的な物語になったかというと、そうではない。軍記物語的な色を強く帯びたのは、天上の都戦役の描写のみだ。

天上の都戦役の間も、作品は描写の視点を弱者によせる一方、語り手には中立公正を維持させている。そのことで戦記らしい客観性と、大陸全体の動向を見つめる大局的なまなざしを維持したのだろう。

視点の移動が比較的たやすい、漫画の特性をいかした表現のように思われる。 改めて、表現というものの可能性に恐れ入ってしまう。

 

戦争の幕引きに向けて

これまで筆者は、『将国のアルタイル』の戦争の描写よりも、構築された世界観のほうに関心をよせてきた。しかし、23巻現在、物語は戦争終結に近づいている。

逆説的なようだけれども、戦争が終わりかけている今だからこそ、筆者は戦争への関心を深めている。

この大戦にどう幕を引くかにこそ、マフムートたちの手腕が問われるからだ。

 

かつてユーラシア大陸では、「戦争を終わらせるための戦争」(The war to end all wars)と呼ばれた世界大戦が起こった。その後に世界を襲ったのは、大戦の敗戦国から生まれたファシズムと、先の大戦を上回る規模の世界大戦である。

 

マフムートが掲げている理想も、「戦争を終わらせるための戦争」に通うところがある。ユーラシア大陸は「戦争を終わらせるための戦争」のあと、数十年もたたないうちに第二次世界大戦を経験することになった。

ルメリアナ大陸は、マフムートの願うように長い平和を享受することができるのだろうか。

何やら話があちこちにいってしまったが、今後の展開が楽しみである。