されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

2.5次元舞台を観たことがない人間の雑感

こんな感じの雑感です。

 

 

きっかけは鈴木拡樹さんのなで肩だった

今年、東博のきもの展に行きそこねた心の傷がかさぶたになってきたので、どんなものだったのかと改めて調べてみた。

そこで、『芸術新潮』にのっていた男性に驚いた。

私は観たことのない俳優さんだったのだが、鈴木拡樹さんといって、舞台で活躍されているらしい。

 

何に驚いたかといえばそのなで肩具合である。この立ち姿の美しさはどうしたことか。

 

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画像出典:https://www.oricon.co.jp/news/2160775/full/より引用

 

 

私はもともと着物を着る人間なのだが、いかり肩である。

いかり肩は悲しくなるほど着物が似合わないので、本当にうらやましく思った。

 

しかし、これはうらやましいで済む話だろうか。

たしかに生まれつきのものもあるだろうけれども、男性がこれほどのなで肩に、そうやすやすとなれるものだろうか。

それは簡単なことではないのではないか、相応の鍛錬がいるものではないか。

 

 

そもそも、なで肩であることは着物が似合うことの十分条件であったとしても、必要条件であるとは限らない。所作や立ち方、重心のとり方が着物にあっていなければ、こうはいかない。

鈴木さんはご覧の通り、いかにも着慣れた風情だが、誰もがこういうふうに写れるわけではないだろう。

 

着物雑誌にのっている写真なんかはガチガチに補正していることが多く、写真用とはわかっていてもあまり魅力を覚えない。布が板みたいに見えて切ない。

しかし鈴木さんの着姿は、静かなのだけれども動きを感じる。着物のほうも何だかうれしそうに見える。

服をいきいきと見せられるモデルさんのルックやウォーキングをみるとうれしくなるものだが、鈴木さんのお写真を見ていても、同じくうれしく思った。

もっと服を着たいと思った。

  

 

そういうふうに写ることができる力を、ただなで肩だからということだけに帰着させてしまってよいのか。いやよくない。

この方にはこの方の魅力があり、それを見せる技術があり、技術を身につけるための努力があったからこそのこの写真だろう。

私が持って生まれたいかり肩のせいにして、何の努力もしなかった、努力しようと思いつくことさえなかったのとちょうど正反対に。

 

 

そう思って私も、体幹の鍛え方、僧帽筋上部の緊張の解き方、背筋の鍛え方なんかを調べ始めた。

おかげさまで目標もできた。体幹を強くして、飛び出している大転子と肋骨を引っ込め、ストレートネックを直し、首を長く細くすることである(わがまま)。

いい刺激をいただいた。

 

 

鈴木拡樹さんの出演作

かくして鈴木拡樹さんのなで肩に感動した私は、続いて「この方はどんな演技をなさるのか」と調べ始めた。

ふつう順序が逆だろうと思うけれど、とにかく入口はなで肩だったのだ。

 

すると、少年社中によく客演で出ているようだ。下北あたりなどでしかみられない劇団に比べれば十分みやすいとはいえ、公演映像をみるのはなかなか骨ではないかと思ったら、なんと折よく、期間限定でDVDを通販するという。

 

鈴木さん出演作は『ロミオとジュリエット』『贋作 好色一代男』『三人どころじゃない吉三』ということで、シェイクスピア好き・古典好きの血がさわぐ。

フライヤーや断片的な映像をみるに、(特に和物二つの)衣装デザインがすばらしい。ますます血がざわつく。

 

その上、別の劇団による『極上文學』というシリーズでも、鈴木さんが出演された「桜の森の満開の下」の記録用映像を期間限定で販売しているという。

これはなんというめぐり合わせ。こういうめぐり合わせを私はいつも信じてきて、その結果いつも最高の出会いに恵まれてきた。

 

ダメ押しにその日、YouTubeではこんまり氏が「こんまり式ときめく道の選び方 サインを見逃すな!」というタイトルの動画まであげた。

これはもう信じるほかない。

 

 

威勢よく、少年社中の『ロミオとジュリエット』『ネバーランド』『三人どころではない吉三』、ならびに『桜の森の満開の下』のDVDを購入した。

ネバーランド』は鈴木さん出演作ではないけれど、評判を聞いたことがあったのでついでに。逆に『贋作 好色一代男』はなんとなく食指が動かなかった、なぜだろうか。

トゥーランドット』もすごくみたかったけどなぜか指がクリックしなかった。

なぜかわからないけれど、まあそれもよし。今度のお楽しみができたと思うことにする。

 

(さらにもう一つついでに言うと、これらのタイトル群から「贋作 桜の森の満開の下」が浮かぶのは無理からぬことと思うので、つぎに機会があったら逃すまいと思う。お恥ずかしながら、野田秀樹は読んだことはあっても観たことがない。)

 

 

 

だがそれはそれとして、一つ気にかかることがある。

鈴木拡樹さんは俗に2.5次元とよばれる、アニメ・漫画を原作とする舞台に多く出演されているらしい。

鈴木さんファンの方のブログなどをみても、2.5の作品がおすすめされていることが多い。

私は漫画は好きなのだけれどもアニメは苦手だし、ううむと思った。ハードルが高い。ファンの方におすすめされてYouTubeにあがっている公式PVなどもみてみたけれど、その……。『どろろ』は役柄といい物語といい、すごくみたかったなと思ったが、他は入り方がわからない。

困惑しながらご本人のインタビューや、ファンの方の感想を漁った。

 

 

その、ファンの方の言葉やインタビュー、短い動画からの印象でしかないけれども、どうも鈴木拡樹さんという方は、役を緻密に作り込んでいくスタイルの役者さんであるらしく、表情をしっかりつけた明瞭な表現をとられるらしい。

そしてそれが、2.5次元舞台のような、既存のキャラクターや物語をある空間にたちあげる作業の中で、うまくはまる、ということらしい。

 

「憑依型」というような形容もよくみたけれど、私の目には、じつにクレバーに作り込まれた表現のように見えた。

「憑依」というのは、そのもともとの語義から考えれば、自我や意識を手放したところで得られる境地だろう。

鈴木さんのそれはそうではなくて、自身のキャラクターや身体、技術と、観客が作品に求めるものとの兼ね合いを緻密に計算し、最適解を提示しようとしているように思えた。「見せる」ということにとても意識的な方のように見えた。

「憑依型」という評価のいわんとするところが「役者の個性を前面に出さない」「素と役が別人」ということならばよくわかるのだが、少なくとも私の辞書にある「憑依」とはちょっと語感が違った。

ともあれ、知的な人は好きだ。

 

 

ただ一方私は、たとえば窪田正孝さんの、心の動きをどこまでも微分してゆくようなミクロな演技に感動したりする部類である。もしかしたら鈴木さんの、強調すべき点をしっかり強調するような表現は、もともとの自分の好みではないかもしれない。

しかしそれと同時に、なにかとても馴染みがある、なにかにつながりを感じるという感触が強くあった。

それは一体何だろうか、2.5次元舞台とは何だろうか。

みたこともないのに考え始めた。

 

 

刀剣乱舞』とは

そこで私は、鈴木拡樹さんの2.5次元における代表作であるという、『刀剣乱舞』のことを調べ始めた。

彼が演じたのは「三日月宗近」という名刀。

刀を演じる?!とびっくりしたが、刀が付喪神としてあらわれたもの、という設定らしい。平安の世から生きているおじいさんらしい。なるほど。住吉の松がおじいさんになって現れるようなものか。

こちらのビジュアルを見るに、衣装は狩衣ベースだが、動きやすくするための袖くくりの紐が目立たない。というかなさそうだ。

袖くくりの紐は年齢に応じて細く目立たないものにしてゆくものなので、人間が数十年年をとっただけでも紐を細く目立たなくするのだから、千年近くも生きていればそれは紐も見えなくなるでしょう、と妙に感動する。

 

 

しかし、袖をくくるどころかたもとの底が裁ってあるのは鬼仕様である。相当上品に動く人でないと、袖がバラけて腕に絡まりまくることだろう。

唯一ドアノブには引っかからなさそうなのが救いか。袖口をドアノブに引っかけるのは着物あるあるである。

アンティーク着物好きならきっと何度かビリッといわせて絶望している。

なるほど、この袖の仕様ならば、何にひっかかってもすいっと抜けてよいかもしれない……

 

……と思ったけれども、よくみるとちょうどドアノブに引っかかりそうなところにだけ留め具がある。鬼!!

 

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先ほどの引用元にある画像のお袖のアップ。おそろしい留め具に加えて、狩衣と下着(単衣?)の両方とも、たもとの底が裁ってあるのがよくわかる。

 


驚いたので、ふだん使わないのについ太字にしてしまった。これはもうドアノブに引っかけるための縫い目としか思えない。鬼すぎる。

この衣装を着こなせるという時点で、役者さんへの敬意がやまない。

 

 

そんなおそろしい衣装をきて、彼ら付喪神となった刀たちは戦う。

何と戦うのかといえば、「歴史修正主義者」と呼ばれる、歴史を改変しようとする者たちの手先らしい。”正しい歴史”を守るらしい。

……歴史修正主義Historical revisionism)と言われてしまうと……どうもこのあたりは、すごく難しい話な気がする。触れたくないのでそっとしておく。

 

いや、正直にいえば、たぶん最初に「刀剣乱舞」というものがあるらしいと知ったときは、自分の性格上、武器の擬人化だとか、「歴史修正主義」という言葉に、不安と危機感を覚えたはずだ、覚えないはずがない。

本来取り扱いの難しいものをカジュアルに消費させる可能性を持つプラットフォームには、それが何であれ私はネガティブに反応したはずである(問題は可能性の有無、未来は誰にも知ることができず、誰が誰をどのように利用するかもわからないのだから、可能性ほど恐ろしいものはない)。

でもとにかく今はそっとしておく。それが本題ではない。

 

 

そんな『刀剣乱舞』というコンテンツは、最初はゲームから始まったのだそうだ。

ではどんな物語があるのかと思ったら、案外物語らしいものはないらしい。

ゲームプレイヤー一人ひとりの「本丸」があって、その本丸ごとに戦っているという設定だという。

イベントごとのストーリーや刀の逸話にもとづいたサブストーリーのようなものはあるにせよ、基本的には刀を集めて強くするということに眼目があるようだ。じ、地味だ。

 

そのストイック具合は、なにか文献を守ってきた蔵書家たちの地味で地味で地味な営み(敵は火事と借りパクと虫)を思わせるようで、いいなと思ったけれども、ゲーム音痴の私には少し難しそうなので、やはりそっとしておくことにした。

今肝心なのは、「2.5次元舞台」とは何ぞや、という疑問のほうだ。

 

 

キャラクターと物語

刀剣乱舞』の場合、2.5次元舞台に先立ってキャラクターが存在している。彼らにはきまった見た目や声、せりふ、エピソードがある。

しかし物語については、先述の通り非常に自由度が高い。「本丸」ごとに、それぞれ固有の物語がある。

 

鈴木拡樹さんのインタビューなどを見るに、メディアミックスにあたっては、この「本丸」設定が奏功したようである。それぞれのメディアごとに、自立した物語を作ることができて、しかもそのことが、他の媒体での活動を妨げない。

たしかに、いくつでも物語が併存できるということはとても新鮮に感じた。逆に、それぞれのメディアごとの表現の特性などを浮き彫りにする題材になるかもしれないとも思うと、実に興味深い。

 

 

その上、主人公たちは刀であるから、怪異や大事件を目撃させることも(名刀には血なまぐさい伝説がつきものだ)、武人に寄り添わせることも、著名人の間を行き来させることも簡単だ。 

たとえば『平家物語』の木曽義仲の最期の場面では、義仲主従の会話を聞いているはずの人間が全員死ぬので「で、この場面の語り手は何者?全員死んだんですけど」となるのだが、刀が語れば万事解決である。

刀の方には使用者の命を救えなかった無念、ときには使用者の命を奪ってしまった無念などもあるかもしれないし、逆に、使用者に対する恨みつらみもあるかもしれない。

そんな刀たちが、ゲーム『刀剣乱舞』には何振りも登場するのだというから、ドラマの組合せは相当数にのぼるだろう。

 

 

どこをとっても、物語づくりには非常によい設定だ。

そんな、物語をつくるための広場のような空間が、ゲームの中からたちあらわれてきたというのは、とてもおもしろい。

 

 『刀剣乱舞』というプラットフォームは、多様性を歓迎し、その多様性によって栄華を誇っているわけである。

現代、多様性の尊重がさけばれつつも、実際のプラットフォームが多様性に耐えられていないケースをよく目にするように思うので、これはなかなか重要な事例のように思われた。

そのことと「歴史修正主義者」という言葉を持ち出す設定とのかみ合わせを考えるとちょっと悩みもするが、とにかくこれは新しい、面白いと思った。

 

 

もちろん、それだけ物語の自由度が高ければ、ある「本丸」での物語と他の「本丸」での物語が全くの別世界となってしまう可能性も高くなる。「それ『刀剣乱舞』といえる?」というような物語も発生してしまうかもしれない。

 

しかしそこでキャラクターが歯止めになるだろう。キャラクターはゲームシステムによって作られた存在だから、条件に応じて必ずきまった言動をとる。

メディアミックスにあたっても、それらと矛盾する言動をキャラクターに取らせないということが、一つの柱となっただろう。少なくとも私が作り手ならばそうする、そうでないと支持を失うだろうことが目に見える。

そのとき、ゲームシステムの中のキャラクターたちの硬さ、柔軟性の欠如は、かえってプラスに働き、「この物語はたしかに『刀剣乱舞』の世界の物語である」と保証する支えになる。

 

「キャラクターはシステムに依存する存在である」「ゲームのキャラクターはあらかじめ決められた言動しかとることができない」という限界が、逆に作品世界を崩壊させない屋台骨となっているというのは、とてもおもしろい。

(それはメディアミックスが成功し、ゲームのファンの支持を得られたならば、の話だが、市場の大きさをみるに成功したと判断してよいだろうと思う。個々のファンがどう思われているのか、知らないけれども……)

 

  

そしてここまで考えて、ようやく2.5次元の舞台が、原作のキャラクターの容姿を再現しようとしていることにも納得できた。

正直なところ、前髪がめちゃくちゃ長かったりするウィッグや派手なカラコンは、すこし怖い。すこしじゃなくてけっこうぎょっとする。

そこまで再現せずとも、「これは髪色はちょっと違いますけれども○○役です」ということでいいのではないかと思っていた。

実際、たとえば能『葵上』では一枚の小袖が葵の上という人物として扱われる。舞台上では「これを○○だと思ってみてください、そう見立ててください」ということが通用するのに、2.5次元舞台ではなぜそうしないのかが不思議だった。

しかし、キャラクターそのものが物語を支える存在だったならば、その容姿の再現度も作品の根幹に関わる問題になるだろう。

 

 

ともあれまとめると、ゲームに登場する刀たちは、物語の中で要請されて登場したキャラクターというよりも、彼らそのものが物語の支柱であり、彼らを軸として物語が生まれているらしい。

ここにきてようやく、何か気になっていたのか、つながりがつかめそうになった。

以前、さっぱりわからなかった東浩紀の「データベース消費」概念のことも少しわかりそうな気がしたけれど、今そこに立ち入る余裕はないし、鉄は熱いうちに打ちたいので、自分が感じたことを先にかく。

 

 

キャラクターと役者というもの

今私は、実際の舞台を知らないのに2.5次元舞台のことを考える、という極めて無謀なことをしている。下手にやれば礼を欠く。

私は詩を好むけれども、「飯島耕一とか読んだことないけど下手くそじゃね?」と言われたらたぶん烈火のごとく怒る。たしかに巧みではないが読んでから言え!!と。

しかし自分に正直でいなくてはこの記事はたぶん書いている意味がないし、何もみたことがない今だからこそ考えられることがあり、書きたいことがある。

だからとにかくおそるおそる書くしかないのだが、それはさておき。

 

とても参考になったのがこちらの方の記事だった(いまいち引用の作法がわからないので失礼があったら申し訳ない……)

 

yuuki-sara.hatenablog.com

ストップモーション」というのは言い得て妙だ、と思って、とてもおもしろく読ませていただいた。

PVなどで見ることの出来た鈴木さんのお芝居からも、たしかにその印象は受けた。

まるで見得を切っているかのような、原作のことを何も知らない私にも、きっとここは名シーンなんだと伝わるような。

そしてその、「ストップモーション」的なお芝居と、『刀剣乱舞』のようなキャラクターを屋台骨として成立する物語との相性が、極めてよいのではないかと思った。

 

 

繰り返しになるけれども、ゲームの『刀剣乱舞』において物語は、細部まで作り込まれているわけではない。ただゲームの中でキャラクターが発するせりふや行動が、その物語が『刀剣乱舞』であることを担保する。

要所要所においておさえられたキャラクターという点が、物語という線を支える。点の集合から線が成り立っているわけではない。

そういう『刀剣乱舞』のあり方と、さきほどの「ストップモーション」は、きっとよく噛み合うだろう。ストップモーションも、舞台の上を流れる線的な時間の上に点をつくる行為なのだから。

 

さらにいえば、自分の身体に役を引き受け、物語を進行させてゆく役者という存在と、物語の屋台骨として、物語をその背に担っているキャラクターという存在の間にも、どこか符合するところがあるような気がした。

 

 

この、演技と物語の幸福な出会いが、鈴木拡樹さんや『刀剣乱舞』に限られることなのか、それ以外の役者さんや2.5次元作品にもあてはまることなのかは、よくわからない。

ただ、漫画やアニメには空間・時間的な尺の限界があるのだから、キャラクターが世界観の構築・伝達の中で重要な役割を果たしている場合は、少なくないだろうと思う。

そうすると、キャラクターの設定が物語を支えているタイプの原作と、役の要点をおさえて作り込むお芝居のアプローチとの相性がよいということには、ある程度一般性がありそうだ。

 

 

正直なところ、漫画の中の世界をどうして舞台上に立ち上げたいと思うのか、現時点では実感をもって共感できていない(共感できないだけで否定もしない)。

私は漫画は好んで読むけれども、その漫画の表現の仕方、すべてひっくるめてが好きだ。『チキタ★GUGU』のキャラクターはみんな全員大好きだけれども、あの謎の星のようなものが漂っている背景や、絶妙な余白こみですきなのであって、彼らが動く様子を舞台上にみたいとは思わない。

そんな人間にも、これだけ2.5次元の舞台がたくさん作られているという現象のほうは、なんとなく納得できた。支持する人がいるのも自然なことだろうと思った。

 

そしてさらに考える。この「しっくりきた」「そういうことか」という感覚はどこからきているのか。

なにせ私は鈴木さんのお芝居をみたことがなく、『刀剣乱舞』のことも何も知らないのだ。何を納得しているのだ、納得している方がおかしい。

 

 

前近代の演劇と「2.5」

そうして考えた結果、私は『西遊記』『封神演義』のような中国の娯楽的な古典のキャラクターを思い出している自分を発見した。

西遊記』には孫悟空、哪吒太子、二郎真君あたりのたのしいスターたちが登場する。『封神演義』では孫悟空はいないものの、哪吒、楊戩(二郎真君)がメインを張る。

みな大衆演劇でも愛されているキャラクターたちだ

物語の枠組みに従うキャラクターというよりも、むしろ自ら物語を創造してゆくことのできる、スター性をもったキャラクターたちである。孫悟空は筋斗雲、哪吒はお団子頭に火をふく車輪、二郎真君は三つ目など、視覚的に特徴づけがなされている点も、現代のキャラクター文化と近さを持っているかもしれない。

 

日本でも、伝教大師伝説、源義経伝説あたりをみていけば、相当の事例が拾えるだろう。小野小町和泉式部あたりもしかりである。

つまり、キャラクターが物語を支えて作り出すということは、前近代にはきっと珍しくないのだ。

むしろ、物語を消費する形のほうが、限られた時代にみられるものだったのではないかという気もしてくる。

 

 

さらに私は、日本の近世の大衆向けの文芸に、歌舞伎等の役者やキャラクターが登場する事例や、逆に、文芸において愛されてきた人物が歌舞伎のキャラクターとして活躍する事例も思い出す。

たとえば柳亭種彦『正本製(しょうほんじたて)』は、歌舞伎の人気演目を脚本風に描き、挿絵も舞台や楽屋の様子まで描き入れていることで名高い。

(実物の画像は早稲田大学所蔵のものなどがオンラインで見られる。)

シェイクスピアの戯曲の大半が、下敷きとなる物語を持っていることなども思い出す。

ロミオとジュリエット』のベースになった物語詩も、シェイクスピア以前からすでに、幾度となく翻案されていた。

 

要するに、既存の物語を劇空間の中に立ち上げたいという欲求も、またそれを支持する観客たちも、古くからたくさん存在していたのだ。

 

 

こう考えると、2.5次元の舞台というものが、実はそんなに特殊な存在ではないような気もしてくる。

たとえば能だって、ある意味では2.5次元かもしれない。

能の中でも夢幻能は、何かしら人ならざるものを舞台上に登場させ、何かしらの奇瑞や救済を舞台上に展開させることが多い。

登場するものは、神仏、精霊の類や軍記物に登場するヒーローたち、『源氏物語』に登場する女君たちなどである。

軍記物の人物は一応史実の中にモデルがあるが、『平家物語』などでは大いに脚色とキャラクター付けがなされており、3次元の人物そのままではない。

源氏物語』の登場人物は、もちろん二次元の存在である。

その上、国宝『源氏物語絵巻』の存在がよくものがたっているように、この手の物語は古くより絵画表現とともに享受されてきた。

 

 

こういう存在には、日常生活を送るなかでは絶対にであうことができない。

そんな別次元の存在たちを舞台という特殊な空間に召喚するというのは、とても自然な発想のように思う。

私は古典文学がすきだが、「そこにいる人幼少期の紫の上ですよ」と言われたら大喜びする。「そこに立ってる人光源氏ですよ」と言われても大喜びする。

それは自分自身の実感として、リアルに想像できた。けして出会うことのできないはずのものがそこにいてくれたなら、きっとそれだけで感動する。

2.5次元舞台というものは、もしかしたら「顔がいいキャラクターに扮した顔がいい人を見たいだけの人が集まるところ」と思われているかもしれないけれど、たぶんその感動の核はもっと違うところにあるのだろう。そう想像できた。

さきほど、漫画の世界を舞台上に立ち上げようとする欲求には共感できないと言ったが、訂正する。そこに立っているのが光源氏だったなら、私は日夜物販に通う。

 

 

しかしもし、「そこにいる人」が、ただの女の子や、ただの中年男性だったならばどうか。たぶん何も思わない。何も感じない。

その女の子の物語や、中年男性の人生が語られ始めたとしても、しばらくは「???」と思ってみているだろう。

その女の子や中年男性に、自分の中での親近感(intimacy)が醸成されるまで、何とも思わない。

 

物語がある程度すすめば、自然とその親近感は生まれる。しかし舞台演劇というものの場合、観客側にも演じる側にも、時間的な限界というものがある。

小説や漫画ならば、都合のつくときゆっくり読めばいい。演劇はそうはいかない。

早い段階でその親近感を観客に持たせることができたならばいいが、そうでないなら、謎の女の子や謎の中年男性がなにかしているところを傍観しているあいだに、劇は幕を閉じてしまうだろう。

 

 

そう考えたならば、小説や漫画によって、すでに観客に知られている人物を舞台にあげるのは、非常に理にかなっているような気がしてきた。

それは、舞台というものの特性をよく生かした物語作りの方法なのではないか。

むしろ、舞台の上で、オリジナルなストーリーを最初から展開しようとしたりするほうが、相当特殊な試みなのではないか。

そんな気がしてきた。

 

 

そんなことをいいつつ、私も鈴木拡樹さん出演作のうち、2.5次元作品のDVDは避けて、『三人どころじゃない吉三』などを買っている。

しかしそれは、私が『ロミオとジュリエット』や『三人吉三廓初買』を知っているからだ。知らなかったなら興味を持てなかった。

その点において、他の2.5次元作品の観客たちと私はなにら変わりないのである。

 

 

 

実際のところ、私が捨象した部分においては、きっといっぱい2.5次元作品とそうではない作品とのあいだの違いがあることだろう。

何より私は何もみたことがないのだから、考えられることには限界がある。

しかし 今は、物語や、舞台や、キャラクターや、芝居、身体のことを考えたかった。そういうものに触れたかった。個人的な問題として。

物語を自分の身体で引き受ける、お芝居というものは、いったいどんなものなのだろうか。

役を作るとはどういうことなのか。エゴ・ドキュメントとはどう関わるか。

いろいろな疑問や関心が炸裂しているので、今この勢いを殺さないままに整理をつけたかった。

 

 

具体的なことはDVDが届いてから考えるとして(なにせ発送通知もまだきていない)、この機会にもっと視野を広げられたら嬉しい。

今日も元気に背筋するとする。