されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『アンの世界地図』全話感想(17)

だいぶ間があいてしまいましたが、『アンの世界地図』全話感想の3巻17話の感想です。今までの一覧はここにまとめています。

多々ネタバレを含みますのでご注意下さい。全巻既読の人間か書いているため、この先の展開に関しても若干かすめてしまっているところがあると思います。

 

 

扉絵

扉絵はお久しぶりのアン!場面は幽霊マイズナーさんの語る回想の内容から、一度、マイズナーさんとアンの対話に戻りました。

 

前回である程度状況は動いて終わり、もう後はその中で生きる人達がどう動いてゆくか、という局面にまで至っていました。

ここで一度21世紀に戻るのは、箸休め的でもありますが、先に進む前に少しのためが作られることで、一層この先の展開の重みが増す効果もあるように思います。しかし、それだけではありません。

一連の物語を語った、不思議な幽霊マイズナーさんという存在についても、物語は少しずつ触れはじめてゆきます。

 

17話の流れ

まず幽霊マイズナーさんは一連の記憶を「ずっと 思い出さないようにしていた」と語ります。これは以前読んだときうっかり見落としていたところですが、とても重要なせりふだと思います。

読者の目からみるとマイズナーさんは問わず語りに流暢に語りだしています。あまりに伝えるのが上手なので語り部に接しているような気持ちで読んでしまっていたのですが、実際の彼は、語り部どころか思い出すことすら避けていたことを、今ここでアンに開陳していたのでした。

(続くせりふ「でも アナタと話していたら 次々と走馬灯のように思い出されてきて……」これも大切ですが、これは既読の身だから言えることなので踏み込むのは避けるとします。)

 

「思い出さないように」というのは、何か思い出したくない出来事が起こるのでしょうが、今のところマイズナーさんが語った思い出は実に美しいものです。

ということはこれから先何か起こるのか……と不安を抱いたこちらの思いをなぞるように、幽霊マイズナーさんは穏やかならぬことを言い始めます。同音のアキの名を口にしていますが、彼の胸中にあったのは、後のせりふからしても秋さんのほうでしょう。

「大嫌い」……穏やかにふるまう幽霊が強い感情を示す言葉を出すと、一気に場に緊張感が出ます。

ただ、このシーンだけに即して言えば絶妙に怖いせりふなのですが、再読中の身としては、この言葉が5巻にもつながってゆくのだということも、覚えておきたいと思います。

 

 

さて、幽霊マイズナーさんの物思いを契機に、物語はふたたび、20世紀初葉に戻ってゆきます。したがって当然、ここからの展開もマイズナーさんの回想のように見えるのですが、その実マイズナーが目撃したはずのない場面を多々含んでいます。

 

これまでも、この作品の語り手の設定の斬新さと、そこからくるフレームの柔軟さには何度か言及してきました。

具体的にいうと、ドイツ俘虜収容所編に入る前は「うだつの家」という舞台装置が、ドイツ俘虜収容所編ではマイズナーという幽霊が語り手を引き受けています。どちらも現代の常識を尺度にしたならば語り手の役目を果たせないはずのものですから、「語り手が見ていないことを語るだなんてありえない」などという批判も柳に風です。それを言うなら根本からこの作品を読めないはずなのです。

幽霊が語っているならばもうなんでもありだと受け入れるしかありません。そしてそのやわらかさは、けしてこの作品のリアリティを削がず、むしろ世界と表現を確実に豊かにしています。そういうバランスが本当に優れた作品だと思っています。

 

 

17話の方に戻ります。マイズナーが「秋さん……あの美しいひとがいなければもしかすると彼は……」と思いを馳せる「彼」とは、続きの展開から考えてフッペでしょう。 

1919年の1月、ドイツ敗戦と帝国の滅亡の帰結として、アルザス・ロレーヌ地方のドイツからフランスへの割譲が決まります。

ドイツ帝国領に入ったのちの時代のアルザスに生れたフッペは、突如日常をすべて失うことになりました。一方大尉はその報道を読み上げながらも、賠償金の総額の方により強い反応を示し、ドイツの行く末を憂いています。

前回まででも描かれてきた両者のどうしようもない境遇や考え方、生活のあり方の違いは、ここにますます覆いがたくあらわれました。

 

 

しかしフッペがうまくやれない相手は、今や大尉一人ではありません。周りの全員が、敵国人になってしまいました。衝撃のあまり通訳のマイズナーに掴みかかりかけながらも、人目を気にして止まる繊細さが痛々しいです。

 

ここからの場面のフッペの言葉や振る舞いはひとつひとつが彼の失ったものをよく示していて、本当に無駄がありません。

ドイツ海軍の一兵卒として名乗りをあげようとするも遮られてしまうシーンは、彼がアイデンティティというべきものをことごとく失ったことの象徴として機能しているでしょう。

また「この間まで まるで家族みてえに……」というセリフは、彼には「親兄弟がいな」いこと(14話)を思うと実に重く迫ります。

 

 

そしてフッペはたばこをくわえながらさまよいいでて、ゾルゲルの背中を見つけました。話しかけようとしますが、間の悪いことにゾルゲルは大尉と肩を組んで話し込んでいました。フッペは踵を返します。

フッペは2巻14話でもゾルゲルに話をふろうとしましたが、マイズナーに遠慮してやめていました。そのときゾルゲルに「案外繊細な男」と評されていたこと、また足元にたくさんの吸い殻を落としていたことが、ここにきてまた重みを増してきます。

 

 

散々なフッペが最後に頼ろうとしたものはアルコールでしたが、やはり今度は陸軍兵たちとトラブルになります。この日のフッペは、羨望と、敵国への憎しみと、理不尽な現実に対するやりきれなさの全部の的にされてしまっているかのようです。

ただここではようやく、床に倒れ込んだフッペに手を差し伸べる海軍兵が少数ながら登場するのが救いです。

「みんな羨ましいんだよ」「みんな本国に帰りたくてたまんねえんだ」という彼の言葉は、14話でゾルゲル相手に帰りたいとこぼしていたフッペには、身にしみてよくわかるものだったことでしょう。この名もなき海軍兵は同時に、読者の物語理解を助ける存在でもありました。

 

フッペはこの一日で、ドイツ帝国アルザス人であるというアイデンティティを失い、またこの四年間を過ごした、家族のかわりのような大切なコミュニティをの中での居場所なくしてしまいました。

そういう痛みを走り抜けて、最後に仲間に吐露した言葉が「休戦なんて……いつ破られるかわかんねえ……そしたら次は……俺と…お前らは…戦りあうことになんだぞ……」だったところに、フッペの人となりが端的にあらわれているように思います。

たくさん辛いことがあり、訴えたいこともあるだろう中で、仲間を思いこの先を憂う言葉が出てくる人なのでした。

 

 

日が暮れて夜、フッペは寒い息を吐きながらまた一人外に出ました。そして森の手前で、ガウンに裸足でさまよう大尉を見つけます。大尉はたばこをふかしながら、オフィーリアのせりふを歌って、冬の川に入っていきました。

そのまま川に倒れ込む大尉を、フッペは急いで助けあげます。「生きてドイツに帰りたくねえのか馬鹿野郎!!!」「……皇帝のいないドイツへ?」大尉は力なく返しました。

 

作中時間としてはもしかしたら、さきほどの海軍兵との会話とこの場面との間に、多少は時間があいているかもしれません。しかし読者からみるとつい先程のことです。

何としても生きて故郷に帰りたくて、フッペのことを羨んでしまう兵士たちの切実さを、フッペは全身で今日受け止めてきました。

そこにこの弱々しい、ある意味では甘えたようなセリフは、どうしようもなく受け入れ難かったでしょう。

 

ただそれだけではなくて、「なんか言い返してみやがれ!」「…………おい……頼むよ……」と懇願しながら罵詈雑言を吐くフッペは、これ以上の変化や失望に自分は耐えられない、お前くらいは変わらずお前でいてくれ、と願っているようにも見えました。

あるいは、しっかりしてくれ、祖国の危機なんだ、と頼み込んでいるようにも見えました。もう自分が祖国と信じた国には帰ることができなくなった、訪れることしかできなくなった身として。

 

 

こうして、大尉の様子を見たフッペの動揺ぶりを見てくると、前話で、大尉が秋さんに薬を譲ったことを、兵卒たちが「男らしいよな俺は尊敬したぜあの大尉を……」と噂していたのや、またさらにその前の15話でゾルゲルが、「兵卒のいる前で弱気な顔を見せるな」「最後までプロイセンらしく傲慢に居丈高にふるまえ」「それは君の義務でもあるはずだ」と強く言っていたのが思い出されます。

 

反発し続けていたフッペにとっても、大尉は立派な将官であり、この収容所における一つの動かない柱だったのでしょう。

まさしく大尉はゾルゲルのいう「女優」の役割を果たしてきていたのでした。つい「女」の字に気を取られそうになりますが、それはつまり気高く汚れず、いつでもドイツ帝国に対する信頼を体現し続ける、象徴としての役割ということだったのだろうと思います。

 

 

しかしフッペが秋さんの名前を出すと、会話の風向きは変わってゆき、最終的には、当初とは全く正反対の構図に収まることになりました。

冬の川に浮かんだのはフッペの体であり、遺体にとりすがって泣いたのはゾルゲルです。彼を「立て 将官が見せていい姿じゃない」と励ましたのは大尉でした。

ゾルゲルの嘆きを、虚空を見つめながら聞く大尉の頬は、フッペに殴られたままに腫れていました。

 

 

そして1919年9月、ドイツ人俘虜の解放が通達されます。彼らがあんなにもうらやんだ、アルザス出身者の帰国からたったの3ヶ月後のことでした。

笑顔を取り戻したゾルゲルは、最後に地元の人たちとのお別れ会を企画します。選ばれたのは第九、「シラーの詩のとおり国境などない『歓喜』を歌いたい」とのことでした。

国境というものに人生を振り回され続けたフッペの死を経ると、この手垢がついたような言葉が改めて胸に響きます。

大尉の顔にはまだ笑顔は見えないようですが、この先どうなるでしょうか。

 

 

まとめ

まとめというよりも注目したいところ、という話になってきますが、まずはフッペと大尉と秋さんの関係、つまり川での場面に目を向けたいと思います。

 

私は前回、大尉が秋さんに向ける感情というのは必ずしもいわゆる恋というようなものではない、あるいは、大尉は必ずしも秋さんと恋愛関係になることを望んでいないと考えていました。

その想像を支えたものが、実はこの場面のフッペの「かわいそうにな!!!」以下の言葉にありました。このセリフを元に、大尉がこれまでの秋さんにどのような態度で接してきていたのか想像した次第です。

 

もちろんここでこれだけ顔色を変える以上、大尉にとって秋さんはやはり大切な、軽々しく損なわれてはならない存在のはずです。

しかし、そのことがすぐに恋愛と結びつくわけではないと思いますし、また立場を考えれば、大尉が秋さんとの関係進展に進もうとすることも、考えにくいように思っていたのです。

とはいえ今回の一連のフッペの言葉を聞いた後の大尉が、また考えを変えていくことは、もしかしたらあるかもしれません。

 

 

この川での会話の時点に戻りますと、二人の口論はドイツ帝国の趨勢と、秋さんとの関係の話を絶妙にもつれさせた形で進みます。

フッペの心中を考えればそれはもつれて当然なのですが、それだけではなく、このミステリー仕立ての物語としても、このもつれた話は謎を維持するために必要となるものです。なんともよくできています。

 

一応振り返っておくと、一連の回想の焦点は、秋さんが子をなした相手の男性、つまりアキのひいおじいさんは誰なのか、という謎でした。

その秋さんをめぐる争いは、フッペの言を素直に受け取ると、フッペが勝った、と言っているように見えます。しかしフッペが最期に残した言葉の中の「俺には……どっちもどうしようもねえんだよ……」という一節と、彼が主張した論理を考え合わせると、どうでしょうか。

私は一つ方向性が示されたように思いますが、しかし考えれば考えるほど、この場面は両方の意味に取れるように作られているようです。

今はその巧みさを楽しむとして、もう少し、ドイツ俘虜編の大詰めを待ちたいと思います。

 

 

それから最後にもう少しだけ、フッペにとってのこの戦いのことを考えたいと思います。

フッペはもともと職業軍人であり、戦争に出ることは生活そのものでした。その点がマイズナー、ゾルゲルとは違っています。

フッペに関しては他のキャラクターよりも、いわゆるモブ、名前を持たないキャラクターたちと談笑する姿が描きこまれてきたように思いますが、それも、彼が軍人として彼らと苦楽をともにしてきたからではないでしょうか。

さきに触れたように彼には故郷に家族らしい家族がいませんでした。戦争とこの収容所での暮らしは、フッペに家族のような絆を与えたものでもあったのでしょう。

 

しかし終戦アルザス割譲は、アイデンティティドイツ帝国アルザスという生まれ故郷、家族のような同僚たちとの絆、一切合切をフッペから奪いました。

川での場面のフッペは直接には大尉を罵りますが、しかしその奥に、今回の戦争(皇帝の戦い)に向かって、なぜだ、どうしてこうなった、と懸命に問いかけている彼がいるように思いました。

やはりフッペにとって、大尉は憎いプロイセン貴族であると同時に、ドイツ帝国ドイツ帝国の信頼の象徴だったのだろうと思います。

 

 

そんなフッペをとりまく現実の中で、皮肉でないものなど何があったのでしょうか。そう考えて探してみると、不意に、フッペが芝居を好んでいたことが腑に落ちた気がしました。

彼はその境遇ゆえに、自分の心のやわらかいところ、隠し持った繊細さを誤解を招かないやり方で表す術を身に付けてはいませんでした。

そんな彼には、今ここの現実を離れて、その心を遊ばせる物語空間が必要だったのだと思います。そして彼の時代と境遇を考えれば、芝居はきっと物語にふれる最良の機会だったでしょう。

 

そう思うと、最後までゾルゲルがフッペのことを他の何でもなく「僕の芝居のファンだった」と捉えていたことに、一抹の救いがあるような気がしました。

 

さらに思い返すと、ある人間のことを何によって説明するか、というのは、思い返せば1巻から2巻8話あたりにかけ、アキやアンをめぐって展開されたテーマでした。本作2・3巻は常識をふっとばす大変柔軟な展開を見せていますが、その中に一本芯が通っているなと感じます。こういう芯を感じる時、一方で、このドイツ俘虜編ともお別れせねばならないのだと、さびしくもあり、またアキたちのことが懐かしくもあるのですが……

 

とまれ、フッペは粗暴な海兵でも、アルザス人でも、ドイツ帝国の臣民でもフランス共和国の国民でもなく、ただの芝居を愛する人としてゾルゲルに見送られました。

私もそのようにフッペのことを思って、彼と、そしてこの17話とお別れしたいと思います。