ケン・リュウ作、古沢嘉通編訳『草を結びて環を銜えん』(ハヤカワ文庫、2019)所収の『シミュラクラ』のネタバレを含みます。
ケン・リュウ作、古沢嘉通編訳『草を結びて環を銜えん』(ハヤカワ文庫、2019)所収の『シミュラクラ』をよんだ。
ひらがなで「よんだ」と書くのは、音読してみたからだ。
正真正銘はじめて目にするものを音読するのは、なかなか先がわからなくてスリリングだった。楽しかったし困りもした。
一番困ったのはお母さんの会話の回想シーンかな、と思って読んだところ。実際は死に際のおかあさんが最後に遺した言葉だった。ずいぶん元気に読んでしまった。
「父娘」のよみかただとか、ルビで特殊な用語が設定されている場合などにも困った。( )入りで補注が入っている場合は読んだが、ルビはどうしようもないので意味が伝わる方を読み上げ、音は読まなかった。
そういう一瞬一瞬の判断のどきどきもたまらない。音読している間のわたしは、黙読するときとは違う、今の一瞬に集中させられる力、流れてゆく時間を滞らせてはならないという圧力に強くさらされていた。
私はきっとこういう読書を忘れすぎていた。いつでも中断できるしいつでも遡れる、そういう贅沢に慣れて鈍麻していたものがあった。
音読の話はともかく、中身の感想に入ろう。
構成としては、ポール・ラリモアとアンナ・ラリモアという二人の人物の語りが交互に示される。
ポールは〈シミュラクラ〉というものを開発して財を成していた。シミュラクラというのは、誰かの生き写しのような映像、のことであるらしい。特殊なカメラを使って撮影し、ディスクに保存してプロジェクターで再生するものだが、会話できる。会話の相手と互いに影響し合うことができる。
ポールの妻はエリン・ラリモア。
アンナ・ラリモアはポールとエリンの娘で、すでに成人している。
ポールとアンナの二人はもともとよい親子関係にあったが、アンナが13歳のとき、ある事件が起こって関係が破綻した。高校生の頃には事務的な会話しかしなくなり、大学生になる頃には、弁護士を介したやり取りのみとなる。ポールはアンナが高校生になった頃から、七歳の頃のアンナを撮影したシミュラクラを再生するようになっていた。
エリンが事故死した際、アンナは久しぶりに父と会話し、実家に泊まる。このときアンナには父を許そうという心づもりがないではなかった。
「わたしのなかの母の記憶はどんなものであれ、すべて本物なのだ」というような記憶への過信もあったが(p.104)、ゆくりなく母を亡くした今は、シミュラクラを求めたくもなっていた。
だがその自室で、アンナは自分が七歳の頃のシミュラクラと出会ってしまった。「現実のわたし」じゃないそれにアンナは嫌悪感をいだき(p.105)、父はコーディリアを愛するリア王のように完璧な自分を夢をみているのだと考えて実家を出る。
そして最後には、アンナとポールの語りの後に、エリンの語りが入る。
これは娘のアンナに向けられたもので、録画されたものであることが本人の口で明言される。
最初、これもエリンのシミュラクラなのかと思った。けれどもシミュラクラなら、「これは録画です」(p.108)とは言わない気がする。音読では再現できなかったのだけれども、この部分はフォントが変えられている。シミュラクラの言葉や、ポール、アンナの言葉とも違う三種類目のフォントだ。
この語りの中でエリンは、これをアンナが聞くのが自分の死後かもしれないというが、それは自分の死を予期していたからではないと思う(彼女は交通事故死した)。
アンナがシミュラクラや父に反発していたことを知っていたから、彼女の態度が軟化するときがあるとすれば、深刻な変化、たとえば自分の死などがあったときだろうと予測したのだろう。
エリンの語りは、アンナに向かってポールを許してやってほしい、そして「本当のお父さん」(p.109)を確かめてほしいと訴えた。
その内容は、アンナがしていることが実は父がしていることと本質的に非常に近いものであることを看破している。
瞬間を切り取り反復する点において、実は記憶はシミュラクラと大差ない。アンナの中にもシミュラクラと同じ限界がある。
同様に、「本当」のものとは見えないシミュラクラの中にも「本当」のことがあるだろう。
シミュラクラのアンナ――何歳時点のものかはかりがたいが、おそらく七歳よりは年長のアンナ――は「ときどき、パパがほんとのこと言ってるのかどうか見分けるのがとても難しいんだよ。」(p.101)と言っていた。
きっとこれは「本当」のことだ。シミュラクラに対して懐疑的だったアンナという人の価値観に照らしても、きっと「本当」だ。
いまいち技術的な説明などを理解していないのだけれども、私は、シミュラクラは外部記憶装置とクローンのはざまにあるような存在だろうと理解している。
特に画期的なのは、双方向でのコミュニケーションが成り立つ点だ。
エリンの語りとただの「映像」であるため一方的に語りかけることしかできないシミュラクラの発話を見比べてみると、改めて、シミュラクラの双方性がはっきりとする。
シミュラクラの中に何か人格のようなものを認めたくもなる。
だが、実際のところ、シミュラクラは長くても二時間でリセットを必要とすると、一番最後のポールの語りの中で明かされる。
この事実は、人間にとっては安堵してもよいことだろう。人造の人格めいたものは、まだまだ人類を脅かすには至らない。
けれども私には、そのはかなさが衝撃的に美しく思えた。
さきほど私はシミュラクラの中にも何か「本当」のものがあるはずだと言ったけれども、シミュラクラの開発者であるポールもきっと、そう思ってここまできたはずだ。
それなのにかれはその技術を「シミュラクラ」、「似姿」と名付けた。かれはたった二時間しか持たないその時間を繰り返すはかなさを重々知った上で、それが似姿でしかないという深い自覚のもとで、その技術を完成させた。
その諦念があまりにも甘美で、でも何にも味がしないので、たまらない。
記憶と記録の違いと共通項だとか、AIと人間の違いと共通項だとか、そういうことはきっと色々な方面からアプローチできる。
けれどもそれに、こういう淋しさと愛おしさをまとわせるのは、きっと芸術の仕事だ。その中でも、音や、光や、肌触りなんかの具象を全部のりこえて、ただこの味のしない甘美さだけをまとうのが、文学の仕事だ。
そう思った。
話が前後してしまったのだけれども、プロットとしては、
エレンの死を語るアンナの語り→シミュラクラの限界を語るポールの語り→エレンの語りという順序ですすむ。
そして、エレンの語りの後、一行あけた最後に、
――やあ。こんにちは。娘のアンナに会ったことはあるかい?
この一文が入って、物語は終わる。
これは、おそらくは、シミュラクラのポールが発した言葉だろう。こんにちは、から始まる語りだしは、アンナに出会ったシミュラクラのアンナが発したフレーズと共通点を持っている。
そもそも実は、一番最初のポールの語りでは、かれが「ドキュメンタリー映画の撮影」中であるとされていた。これは、七歳のアンナのシミュラクラに向けて発された言葉だったから、おそらく本当はドキュメンタリー映画ではなくて、ポールのシミュラクラを作成するための撮影なのだろうと思う。
さて、その撮影の結果完成したポールのシミュラクラは、誰に向かって何を話すのだろう。
妻も亡く、娘とはすっかり縁が切れてしまったというのに。
今、ここまで書いてきて、ふとぞっとした。
音読していた段階では、誰にも話すあてがないままに作られたポールのシミュラクラをさびしく思っていたのだ。
アンナは一瞬とはいえエレンのシミュラクラを求めた。ポールは始終アンナのシミュラクラを求めた。ポールのシミュラクラを、一体誰が求めてくれるというのだろう。
ポールはきっと、自分以外の誰かが、アンナに自分の真意を伝えてくれることを期待して、シミュラクラを撮影したのだと思う。
ポールの語りの中には、「それを知ったとしても、あの子にはどうでもいいことだろう。だけど、もしその情報をあの子に伝えてくれるなら、ありがたく思う。」という一節があった(p.100)。
自分とアンナのコミュニケーションがいよいよ困難になったので、自分の似姿にわずかなのぞみを託したのだろう。
けれども、ポールは、自身のシミュラクラにアンナのシミュラクラが取り込まれてしまっていることをどう思っているのだろうか。
「娘のアンナに会ったことはあるかい?」という質問にそのことはよく現れている。
けれどもそれ以前に決定的なのは、ポールのシミュラクラ撮影の現場にアンナのシミュラクラがいたことだ。ポールはアンナのシミュラクラとの会話の様子を撮影させて、それをもとにシミュラクラを作っている。
「現在のわたし」に向き合わない父に反発したアンナは、「シミュラクラのアンナに対して発話する父をもとにして作られたシミュラクラのポール」の言葉に耳を貸すだろうか。否。
この親子にポールのシミュラクラがもたらすものは、致命的なコミュニケーション不全のような気がする。
そしてそのことにポールは全く無自覚なのではないかと、今しがた思い当たったのだ。それは、ちょっと、空恐ろしかった。