されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『きみを死なせないための物語』最終巻 読みたてほやほやの感想

※ストーリーについての積極的なネタバレはしていませんが、全巻にわたって色々と触れている部分があります。未読の方は絶対に読まないほうが作品を楽しめます。お気をつけください。

※ふだん作中の描写を踏まえて感想を書くときは、引用文と本文を分け、逐一出典を出します。しかし今回そうすると、かえって本作全体のネタバレカーニバルみたいになってしまうのと、とにかく今の感想を鉄が熱いうちに書いておきたいので、厳密に引用せず「わかる人はどこの話かわかる」という書き方にしています。申し訳ありません。

(もしかしたら後日引用の方法を見直すかもしれません)

 

 

ついに最終巻を読み終わってしまった。

整理して考えたいことは別においておくとして、まず今書いておきたいことを文字に残しておくことにした。

 

表紙とジジのこと

ジジの行く末は、予想通りであり、予想をこえていた。

ずっと「枯れる」といわれてきたのに、あんなに美しく散っていったのが、どうしても悲しかった。

 

 

それにしても、書影はずっと前から公開されていて、表紙を何度も見ていたのに、ジジの姿の意味をずっとわかっていなかった。アポロンに追われて月桂樹となったダフネーをしっているなら、わかっておかしくなかったのに。

 

葉と花をまとったあれは、ジジの死に際の姿なのだろうか。月桂樹になっていく直前または過程の姿なのだろうか。

作中では、シーザーが穏やかに看取ってくれた。ジジ本人の表情や体は映っていなかった。

もし表紙に描かれたジジの表情が、彼女の最期のものならば、それはよかったのだろう、と思う。こんなに静かに笑うことができて。

 

 

でも、シーザーだけが見守ってくれたものが表紙になって、全国の書店で平積みされているのだと思うと、いたましくて、身を切られるようにつらい。

作中の描写のとおり衆目にさらされることなく、シーザーの心の中にずっと残ってくれたらいいのに、と思う。

 

いや、そうだ。死に際のジジは、きっともっと細く細くやせていたはずだ。

こんなにすらりと立つことはできないし、頬のあたりにもすっかり骨が見えてしまっていただろう。

だから、たぶんこの表紙のジジは死に際のジジではない。

 

 

そうではなくて、もっとイマジナリージジ的な、アラタたちと一緒に次の星に向かい、たどり着いたときのジジだと思うことにした。実際は細胞の培養ケースに入っているジジだと思うことにした。

もう、骨と肉を支える重労働から開放されたジジなのだと、次の星と命のために必要とされ、活躍するジジの笑顔なのだと、私はそう思いたい。

根拠はない。ただそうあってほしいだけだ。

 

 

「死んだら死んだで生きてゆくのだ」(「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」)は大好きな草野心平の一節なのだけれど、本当にそうだ。16年しか生きられないダフネーは、人として死んだ後に数十億年を生きる。

アポロンに追われたダフネーが木として長く生きたように、ジジたちダフネーも、かえってはるかに長い時間を生きる。

 

生きている人間を基準に据えてしまったら、死んで初めて価値を見いだされるようなダフネーの生態は、あまりにも辛い。

だがそんなことダフネーは知ったことじゃないかもしれない。ゾウガメは人間の短い命を憐れんでいるかもしれないけれど、わたしは知ったことじゃない。

わたしは生きていて死を知らない人間だから、生きているときが本番だと思っているけれど、ひょっとしたら死後の方が本番である可能性もある。

 

 

そう、頭ではわかっているのだ。この作品が導入した植物やバクテリアの命が、人間の思う死を相対化しているのだと。『きみを死なせないための物語』というタイトルは、「死」を相対化し、捉え直すことで達成されたのだと。

しかしわたしは「細胞の培養ケース」と書いたときから涙を止められなくて、表紙のジジは笑っている。生きている人間のわたしの愚かさは、ジジからしたらほほえましいくらいのものかもしれない。

 

今ならば、ジジというかわいらしい名前が、同時にG103R-g03Fという無機質な被験体番号の略称でもあったことが腑に落ちる。最初は少しだけ、「かわいいけれど、別の名前をつけてあげようとする人はいないのかな」と思ったのだ。でもジジは、一人の人間であると同時に、それだけではなかった。

「あなたは生きてるだけでいい」と「あんたの仕事は最高だ」は、ジジの場合、むごいほどに矛盾してしまう。けれどもそれは周りの人間から見た時の話だ。

ジジ自身は生きても死んでもジジだ。最初から、人間であって人間ではない、動物でありながら植物でもある、という矛盾を豊かに抱えていた。

 

 

だから最終話でジジは「全ての生命の母」と呼ばれ、「最後の贈り物」と呼ばれる。たしかにそうなのだと思う。

「お母さん」がジジの望んだ仕事であり、ジジだからこそできる仕事なのだろう。ジジのもっている細胞こそが、地球から人類への「最後の贈り物」なのだろう。

私も、「あなたは生きてるだけでいい」だけではなくて、「あんたの仕事は最高だ」という言葉をジジに贈るべきなのだろう。全部わかっている。

それでもただ一点だけ、私はささやかに抵抗する。

わたしはジジのことを「母」とは呼べない。「贈り物」とも呼べない。ジジはジジだ。

 

 

思い返せば、一巻の表紙のジジは点滴のチューブにつながれて、よるべなさそうな顔をしていた。

どんなにくらい女の子なのかと思ったら、作中のジジは、誰よりも笑い走り回っていて、拍子抜けしたのを覚えている。

一方思春期を迎えて、最終巻が近づいてくると、ジジはたくさん泣くようになった。それと相反するように、表紙では笑顔を見せている。

 

それはなんだかねじれているようだけれど、私にはとても納得できる。

おそらくジジは幼い頃、もっと泣いてよかったのだと思う。泣くことさえも奪われていただけで、本当のジジの中には、あのよるべなさそうな顔もあったのではないかと思う。

 

ジジは死んだら死んだで生きてゆくけれど、細胞の培養ケースに入ってしまったらもう涙することはできないのだ。その前に、それまで泣けなかったぶんをちゃんと取り返せただろうか。たぶん取り返せたのだろう。

だからきっと、最後に表紙で笑いかけてくれた。

 

 

笑いかけてくれた、なんていうのは、おかしな言い方だろう。

しかし表紙というのは、およそ読者という存在を意識して作られるものであるはずだ。

そこに描かれたジジが笑っているのだから、このジジは私に笑いかけてくれているのだと思ってはいけないだろうか。

 

私は作中の世界とは違う世界に生きていて、そこに働きかけることは何もできない。

でも私も、あなたが小さい頃からずっと、あなたのほんとうのさいわいを願っていたのだと思う。だからきっと、この感想を何度推敲しようとしても、どうしようもなく泣いてしまうのだ。

 

 

 

ルイのこと

Fair is foul, and foul is fair.(新潮文庫福田恆存訳では「きれいは穢い、穢いはきれい」)。

最終巻を前にしたもやもやした雑感を、なるべく曖昧に書こうとしたとき、引用した言葉だった。『マクベス』序盤の魔女の言葉である。

作中主人公格のネオテニイ四人のうち、もっともfairなものとその実在を信じていたのは、おそらくルイだったのだろう。

 

ルイは「インモラリスト」で、「反コクーン的」な人間だった。それはどちらも、コクーンというもの、モラルというものがないと成立しない。

アンタレスが火星なくしては有名無実のものになるのと似た仕組みで、コクーンの理想が虚像だったなら、ルイはもうそれまでのルイではいられない。

 

その上ルイは、容姿の美しい人間だと繰り返し評価されてきた。ルイ自身、美しいものに価値をおいていた。

でも、あのVRを切ってしまったら、もうfairなものはなくなるのだ。ルイはインモラリストでも、美しい人間でもいられなくなる。

 

 

実際ルイはこの最終巻の中で、めまぐるしく変化してゆく。

ルイは、アラタの見立てでは「孤独そのものに苛まれることはないだろう」(6巻25話)人間だった。

その彼が今巻、自分はディスコネクト(接続不良/孤独)だと認めた。かつてジジが自分のことをそう言っていた言葉だ。

 

またルイは、自分はゲイではないということも繰り返し言ってきた。

その彼が今巻、自分から男性にキスをした。シーザーにされると、さんざん怒っていた行為だ。

同じくシーザーを救うにしても、他にも手はあっただろうに、なぜキスだったのだろうか。あのキスは何だったのだろうか。

 

 

まあ、言語よりも視覚的表現によるコミュニケーションを得意とするルイであるから、彼らしいといえば彼らしいのかもしれない。

しかし私の目にはまず、彼なりの、シーザーに対する歩み寄りであるように映った。

何があっても自分を曲げなかったルイが、シーザーに歩み寄り、シーザーのために自分を曲げたことを、象徴的に示すシーンのように見えた。

もちろんそのキスをする前も、した後も、きっとルイはゲイではない人間のままだろう。

それでいい、ゲイはゲイのまま、ゲイでない人間はゲイでない人間のまま、それぞれ生きていけばいい。歩み寄るとはそういうことだ。

 

 

別の考え方もある。

ソウイチロウがコクーンの体現者であるならば、ルイはあのキスでコクーンに媚びたのだ。そうともとれるかもしれない。

それは、反コクーン的である自分を曲げて、コクーンに甘えたということではない。

同じことを繰り返してしまうけれど、反コクーン的であること自体が、コクーンへの甘えなのである。ルイに自覚があったかどうかはさておき、あのキスは、ルイがいかにコクーンに甘えているかが、よく現れた姿だったのかもしれないとも思う。

 

そのままのルイではたぶん、シーザーやアラタとは共にゆけなかった。二人は表面的にはコクーン的でありつつも、本質的に反コクーン的であったからだ。

一方のルイはそれまでもポストマンに「メーラー」と呼びかけてみたり、膝枕されてみたり(ちょっとこのあたり記憶頼みで書いているのだけど……キュヴィエも同じようなことをするので確かかどうか少し心配ではある)、様々な形で戯れていた。

だが、そんな甘えが決定的な形で現れたこのとき、ルイはソウイチロウ及びコクーンと、自分との間の厳しい距離に気づく。だから最後、ルイは長い旅路をともにすることができるのだろう。

 

 

また別の考え方もある。

あのキスは、シーザーに対するルイの執着のあり方が、そのまま別の相手に現れたものだったのかもしれない、という捉え方だ。

ルイがバイになった、ということではない。アラタには「嫉妬」と言われていたけれど、嫉妬にもたくさん種類がある。

 

ルイがシーザーに向ける感情や執着は、既存の性愛だけから説明されるものでもないだろう。まして恋愛など、しょせん近代の産物だ。現代ですらいい加減ゆらいできているものを、近未来の彼らにあてはめる道理もない。

私は今すぐそれを言葉にできないけれど、ルイ本人はその何かに気づいている。ルイがその何かを形にするならば、本人が言う通り、きっと絵を描くのだろう。

幸いシーザーは、ルイの絵をみて涙するだけの理解力を持っているから、きっとそこでなら対話が成り立つ。

 

 

色々考えてみたけれど、結局別に一つに限定する理由もなく、また何か答えを探しているわけでもないのだった。

どうしたってルイとシーザーには十分な時間があるし、ルイには芸術がある。

fair なものが何もなくなったところから、また何かを作ってゆけるだろう。

 

  

こんなことを書いていたら、作者の吟鳥子先生がツイッターにあげられたマンガで、シーザー・ジジ・アラタ・ターラの名前が、DNAの塩基配列からきていることを知った。

 

私は生物を勉強していないので(高校生の頃、生き物を使った実験の話のたびにかるい迷走神経反射を起こしていて、とても耐えられないので授業中わざと寝ていた)わからないけれど、ルイはそこから外れてしまっているようだ。

 

最初は少しさびしく思ったものだが、これは逆に希望なのかもしれない。他の3人とジジは遺伝子の枠組みの中で決められて生まれてきたものだけど、ルイは遺伝子の乗り物ではなく、どの枠組みにもおさまらない。やっぱり彼は芸術家なのだ。

かつて祇園さんに惹かれたルイの行動が、4人の運命をすっかり変えて、コクーン人類のそれすら動かした。CGATの舟に乗り合わせたルイの創造性は、きっと彼らを予定調和から救っていくだろう。

 

 

 

ソウイチロウとアラタのはざま

さて、ソウイチロウの心は、最終巻にいたってついに明らかになった。一緒にいろいろな謎も明かされる。

なぜ人類が地球を離れて宇宙に向かう本は禁書とされていたのか。

なぜジラフはあのような事故に見舞われたのか。

 

 

変だったのだ。研究成果というものはひとたび発表されたなら、学界に広く共有されていくものである。

本当にジラフの研究がテクノクラートにとって危険なら、論文の回収はもとより、関連領域を含めて学界を潰す勢いの圧力がかけられたはずだ。

だがジラフの研究成果は、けして闇には葬られなかった。アカデミズムの世界に身を置かないリュカでさえ、自由に読むことができていた。

ジラフの命も、すぐには奪われなかった。ただ、進歩というものだけを難しくするような、奇妙な記憶障害に見舞われただけだ。

 

 

最終巻にきて、その理由がおおむねわかる。

ジラフがみいだした技術は、アラタのためには必要だった。しかしそれを利用するのはアラタでなくてはならなかったのだろう。

ジラフやジラフに触発された他人が、さらにおし進めたりしてはいけなかったのだろう。

もしかしたらジラフの事故には、見せしめ的な効果もあったのかもしれない。

 

 

とはいえ、疑問も残る。

ソウイチロウが【アラタ】を必要としたことはわかる。どうしてそれはジラフではいけなかったのだろうか。

彼も聡明で、宇宙工学者で、ネオテニイだった。人類に惑星の大地を踏みしめさせることを夢見ていた。

ジラフにはアラタほどの記憶力はなかっただろうけれど、そのアラタが彼を「傑出した研究者」と評している。温雅かつ茶目っ気のある人柄で、アラタよりも地球や地球時代に言及しがちであったから、テクノクラートには向かないと判断されていたのだろうけれども、地球についての情報を与えられたなら、ロケットの行き先だって考えただろう。彼はあんなふうに損なってよい人材だったのだろうか。

 

 

たぶんその答えは、「おまえは【アラタ】と共に生きてゆく貴重なネオテニイだ」(p.107)というせりふにあるような気がする。

ジラフには、共に生きるネオテニイがいなかった。仮にジラフが旅立っても、一人では正気を保てないだろう。

それだけのことのような気がする。逆に、もし彼がアラタと同世代であったなら、彼はきっとアラタとともに旅立っていた気がする。

「それだけのこと」と言ったけれども、世代というものは重い。結局ジラフは、ライオンのためにコクーンを離れないのだから。

 

 

高校生のとき、私にシェイクスピアを見せてくれた先生に、「あなたたちはどうあっても世代というものからは逃げられない」ということを言われた覚えがある。

賢くても愚かでも、お金持ちでも貧しくても、同じ世代の人間との運命共同体からは逃げられないということを言われた。

そのときは十分理解していなかったような気がするのだが、ジラフを通じて、またあの言葉に会った。

ソウイチロウとアラタのあいだに生まれてしまった彼は、たぶんその位置から抜けられないのだろう。

 

 

私はジラフのことが好きなので、彼がなんとか、研究者としての輝きを取り戻してほしいと願っている。

ルイが「シーザーの第二パートナー」と説明されることを嫌ったように、私も、ジラフを「ライオンの第三パートナー」とは説明したくない。

今すぐにでは無理でも、彼は彼の力で生きてほしい、リストの瀬戸際から抜け出してほしいと思う。

 

 

だが、ソウイチロウの見立てでは、いずれコクーンの中にソウイチロウの血をひくネオテニイの居場所はなくなる。

皆が「自分たちもネオテニイになれるかもしれない」と思えばこそ、彼らの遺伝子は求められる。そうではないとわかったら、定数の決められたコクーンにあっては無用の長物だ。妬ましいだけ、憎いだけだ。

 

そうしてソウイチロウの立場もひっくり返る。なにせ、すでにもう国連軍には煙たがられていて、人々はデモというものの味を覚えている。

ソウイチロウに血縁上近いネオテニイといえば、玄孫のアラタだ。しかしアラタがコクーンを離れたら、彼の叔父であるジラフは、ソウイチロウにかなり近い方のネオテニイとなるかもしれない。ソウイチロウがアラタの父方だったならそうとは限らないのだけれども、民衆にそう思い込まれてしまう可能性は十分にあるだろう。

【アラタ】信仰が支持を得られれば、ネオテニイにも生きる理由が生まれるし、アラタの縁者の待遇も変わるかもしれないけれど、ソウイチロウはそんな楽観視をしていない。

結局リストインをまぬかれても、ジラフの未来は危ういかもしれないし、私がどれだけ想像をめぐらせたところで、ここから先の物語はない。

 

 

しかし、アジアの二人の子供がいる。ソウイチロウの血をひかない子供だ。

示唆されるのみにとどまったあの二人は、もしかしたらネオテニイの希望であるのかもしれない。アジアという人が作中になっていた役割を考えたら、たぶんその想像も、無理なものではない。

 

だから私は、生きている限り宇宙にニュースや音楽を届けるといった、ジラフのことを信じていようと思う。記憶をなくしていてもなお、次第に絶望する時間を短縮していったジラフを信じていようと思う。

 

ジラフも現実を知らないわけではない。それでも未来を信じてみせるのは、不確かなことから逃げない知性と、幼さから逃げない勇敢さなのだろうと、私は思う。

そういうジラフだから画期的な発明にいたったのだろうし、その発明に古代英雄の名を冠する稚気を楽しむことができたのだろう。

その点で、たしかにジラフはソウイチロウの血をひくネオテニイであり、アラタのよき叔父だった。

 

 

アラタとソウイチロウ

一方のアラタとソウイチロウも、たぶんジラフにはなりえない。

最終巻を読んでまず思ったのは、本当にこの二人は高祖父と玄孫なのだ、ということだった。

シーザーはターラのことを見る目があるといい、ターラはアラタのことをソウイチロウ以来の天才だと評価していた。

だから、この二人のお墨付きということに無理やりさせてもらいたいのだけれども、たしかにアラタとソウイチロウは似ている。

 

 

たとえばアラタはソウイチロウを独善的だという。

けれどその後、ジジにむかって「俺は人類の英雄なんかじゃない こんな自分勝手な残酷な夢をずっとかかえて――」(p.178)と吐露する。

それから、アラタにとってのジジは娘のような存在だった。ソウイチロウにとっても彼の娘は特別であり、彼よりも先に旅立っていった。

 

 

こうした共通項から、逆にソウイチロウのことを思いもする。

アラタはコクーンの中ではどうしても生殖しなかった。ネオテニイのカップルから生まれてくる子供のかわりに、席を空けさせられる命のことを思った。

 

一方ソウイチロウは、各地に子孫を持つけれども、実はかつてはダフネーとネオテニイ両方の因子の排除を主張したのだという。

ソウイチロウの真意が詳しく語られたわけではないけれど、彼自身がネオテニイであること、彼が亡くなっていった旧人類のことをけして忘れていないことを思えば、その意味は重い。

 

彼の遺伝子は各コクーンにばらまかれたけれど、ソウイチロウはどれほどの葛藤に耐えてきたのだろうか。

以前老翁はアラタに、ネオテニイはテクノクラートには向かないといい、彼の苦痛を見透かした。 それは、ソウイチロウにせよ例外ではあるまい。

 

 

しかし最終的に、ソウイチロウは人間がなぜ生殖するのかがわかったと言う。「一代では何も成しえない」からだそうだ。

それに似た思いはおそらく、「次の星のお母さん」になることを喜んだジジも、持っていたのだろう。とかく本作のネオテニイとダフネーは鏡写しだ。

 

数十億年後の娘を待たせているアラタも、一代では時間が足りない。

アラタを止めていた命の定員ももうなく、ターラも生殖を望んできたとなれば、アラタが生殖しない理由はない。かつてキュヴィエ博士が語っていた、F4×F3の好条件というおまけつきだ。 

 

さらにいえば、おあつらえむきに、他にも男性が二人いる。一人は一度、ターラ自身が生殖パートナーとしてふさわしいと考えた人だ。

たったの四人では早晩近親相姦に陥ってしまう。しかしもし、コクーンのネオテニイが二百年生き延びていたなら、なんとか間に合うだろう。

そんな綱渡りのようなことをしていて数十億年後のジジに会えるのか、それともジジがであう生命は地球人類とは全く別のルーツの生命体になるのか、ちょっとわからない。それでも、彼らが一代きりで終わることはないはずだ。

 

 

そうやっていつか、アラタもオールド・マンとなるのだろうけれど、そのとき、アラタはどんな目をしているのだろうか。ソウイチロウの姿を見ていると心配になる。

 

しかし心配しようにも、思えば意外と、私はアラタのことを知らないのだった。

むしろアラタは、何かを隠していないときがない。最初は部屋いっぱいの禁書を頭の中に閉じ込めるところから始まって、考えていることをいつも隠している。共感覚のためとはいえ、マスクで顔を隠してもいる。

 

 

能力についてもそうだ。

ターラがいうには、アラタは長年自分の能力を隠してきた。

彼のダフネー研究はあまり芳しい成果をあげなかったけれど、おそらくもっと早い段階から答えは見えていたのだろう。

彼は「残酷な夢をずっとかかえ」ていたという。それはすなわち、ダフネーたちやスタッフたちにも「ずっと」心を隠してきたということでもある。読者たちも一緒に、アラタにあざむかれてきた。

 

  

いや「あざむく」というと言葉は強すぎる。実際のところ私は、アラタのことを全然知らないという事実を喜んでいるのだ。きっとアラタは、私の知らない可能性をたくさんもっている。

 

さらに、私の知っている可能性もある。 ソウイチロウと違って四人であることだ。

あれだけ忌憚なく言い合うことができる友人がいるのだから、きっと誰もソウイチロウのようにはならない。特に、今まで思い悩み、成長する姿をたくさん見せてきてくれたターラの存在が、私にそう思わせてくれる。

 

いつのまにか彼らはジラフがいう「ノブレス・オブリージュ」みたいなものをきっちり果たしていたけれど、二十歳の頃はまわりの視線に露骨に辟易していた。四人でたくさん笑いあっていた。

コクーンを出た今となってはもう、誰も、大人のふりも旧人類のふりもする必要はない。終盤のアラタに笑顔はなかったけれど、四人だけになったら、きっとただのネオテニイとして笑い合ってくれるのではないだろうか。

 

 

 「旧人類のふり」というのはアジアがジジに言った言葉だ。ジジは人間の形を脱ぎ捨てて、別のかたちでずっと生きてゆく。ダフネーがそうなら、ネオテニイだってきっとそうだ。 ルイが自分を構築し直し始めたように、たぶん彼らはこれから、ネオテニイとして生き直してゆくのではないだろうか。

 

 

40代のシーザーとアラタは、政治家の息子やテクノクラートとして、大人のふりを余儀なくされた。

その20年ほど前、アラタとシーザーとターラは東京コクーンのシネマで、バーチャルな虫取りをして遊んだ。ルイはそんな子供のふりにはつきあわなかった。

それからさらにずっと前、四人はバーチャルな宇宙空間の中に一緒に放り出されて、互いの相性を試された。

 

 

今はもう、子供のふりも大人のふりもしなくていい。VRではない、未知の宇宙が彼らの前にある。 【2020.12.20追記】 このあたり少し考えが変わったので、たぶん別記事で修正かけます。