『アンの世界地図』の全話感想、おやすみしておりましたが、続きの3巻第15話の感想です。
ネタバレを含みますので未読の方はご注意ください。
三巻の表紙
ついに三巻に入りました。
表紙がとても色鮮やかです。本作主人公であるアンもアキもいない、百年前の人々だけで構成されている表紙。
面白いのが、秋、ゾルゲル、マイズナー、フッペ、シュヴァンシュタイガー大尉(なぜか呼び捨てにできない)の全員が、着ている服が違うことです。
この服装のちがいが、彼らの位相とよくかみあっているのですね。
まずゾルゲル、フッペ、シュヴァンシュタイガー大尉は軍服ですが、それぞれ所属・階級がちがいます。
このうちゾルゲルが帽子をかぶっていないのが、士官である以前に学者であった彼らしいような気がして好きです。
一方、もともと職業軍人ではないマイズナーさんはおそらく背広姿。
同じく民間人の秋は振袖姿なのだと思いますが、たもとが袖にからみついているようで少し苦しそう。
あるいは、袖の長さというものが一般に女性の年齢と呼応することを思えば、三巻での展開とうまく噛み合っているのかもしれません。
15話の流れ
今回扉絵はなく、またまた密度の高いお話が展開してゆきます。
最初は、いつの間にか人気者となり、プロイセン貴族の名をおもちゃにされているシュヴァンシュタイガー大尉の姿から。食堂でブルストを上品にお召しです。
囚われの身であるにもかかわらず、「適当にカロリーの高いもの」を注文するゾルゲルはものすごく頭を使っている模様。
考古学・生物学・地質学・文学・哲学・植物学・宗教文化学の講義を、図書館もない収容所でやってのけるこのひとは一体何者なのでしょうか……。
開幕早々脱線しますけれども、ここでゾルゲルは「職業に貴賤なし」といっています。よく聞く言葉ですが、何が出典なのだろうかと思って簡単に調べたら、ちょっとしたレファレンスしか見つけられませんでした。
よく「職業に貴賎はない」というが、この言葉の出どころを知りたい。 | レファレンス協同データベース
思想としては石門心学に似た発想があったということなのでしょうが、このフレーズそのものの出典としては、他になにかありそうなものです。
「職業」という言葉自体は『太閤記』にはすでに出現していますので、どんなに遅くとも一七世紀前半にはあったはず。となると江戸期の版本をひっくり返すか、明治期の翻訳をあさればヒントが見つかりそうに思いますが……(思想・語彙的には『学問のすゝめ』のような実学志向と近いところがありそうな気がするのですが)
とうていそんなことはできませんので、作品のほうに戻りましょう。
大尉とゾルゲルの様子がプロローグ的に紹介されたところで、マイズナーが語り手となりました。1914年11月から始まった俘虜生活もいつのまにか三年目、ときは1917(大正6年)となっています。
マイズナーいわく、この頃のドイツ捕虜たちは「いかに生活を充実させるか…のマニアになっていたよう」だとのこと。そんな彼らのアクティブな日々が、スピーディーに振り返られました。
そして場面は1917年12月。
あいかわらずシュヴァンシュタイガー大尉の名前はミシュランガイドの★のように利用されています。
ユーハイムのお菓子も、マイズナー・ゾルゲルの収容所内郵便局も、すっかり彼らの生活の中に馴染んだようでした。
そんな中、地元の(正真正銘の)郵便屋のマサやんが、秋から捕虜たちへの手紙を届けにやってきます。
秋さんは「わいなはと」(Weihnacht、クリスマスのこと)のカードの習慣をマイズナーさんに教わって、送ってきたのでした。
にやけるマイズナーと、水兵仲間と大騒ぎして喜ぶフッペと、辞書を借りて自分で読もうとする大尉、それぞれの秋さんとの交流の模様を見ていると、心があたたまるのを感じます。
しかし、大尉の部屋を出るマイズナーさんの冷えた目や、マイズナーさんがいなくなったあとの大尉の姿を見ると、少しの不安も覚えるところ。
そこに重ねて、マイズナーさんの
「あれから3年 手鞠で遊んでいた少女の家と 私たちはおだやかな交流を続けていました 」
「秋サンの笑顔と親切にふれるたびに何とはなく幸福になりこの世に美しいものがあると感じられるのでした」
というモノローグが入ります。こういう幸福がきっと壊れるとわかってしまうのは、いったいどうしてなのでしょうか。
美しい不穏さに泣けてしまいそうです。
「美しい」というのは、はじめて秋さんにあったときの大尉も言っていた言葉でした(14話)。秋さんはたしかに美しい姿かたちをしていて、美しい心根をもっています。しかし今はもう、それだけではないでしょう。
敵味方、囚われた人とそうでない人、兵士と民間人という立場に別れた者同士が、目に見えないなにかを積み重ねてこられたことそのものが、美しく、奇跡的なことだったのだと思います。
「美しい」というのは、大尉やマイズナーが言ったのがどんな言葉だったのか、どういうニュアンスかわかりませんけれども(ひとくくりにするなら彼らはドイツ語を話しているわけですが、地方言語はあるのか、ドイツ帝国について「地方言語」という言葉を使ってよいのか、全然わかりません……)、日本語では、昔は、「愛おしい」というような意味をたぶんに含んでいました。
『枕草子』のよく知られている一節に、こんなものがあります。
うつくしきもの。瓜にかきたるちごの顔。すずめの子の、ねず鳴きするに踊り来る。
二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひくる道に、いと小さきちりのありけるを、めざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて大人などに見せたる、いとうつくし。
雀の子や二、三才(現代では1,2歳でしょう)の幼子について言っていることから、「うつくし」とはいとけない、小さいもののかわいらしさをいう言葉だとわかります。
しかしそれだけではないでしょう。
雀の子も、まだ物心つかない幼い子どもも、人の言葉が通じる相手ではありません。
それが、人の鳴き真似によってきたり、自分が見つけた発見を分け与えにやってきてくれるというのは、まったく奇跡的なことではないか。
ひとつには、本来出会うことのできないものと出会い、なにかを共有することができたという点において、またもうひとつには、言語以前のコミュニケーションが成立したという点において。きわめて稀有なことなのではないかと、私には思えてしまいます。
特に、ただでさえいとけない幼子が、さらに小さな塵を見つけてくるというところが、示唆的に思われます。
色々連想してしまうのですが、たとえばアルキメデスは宇宙の大きさを考えようとして、砂粒の数を考えました(『砂粒を数えるもの』)。
あるいはウィリアム・ブレイクは 'Auguries of Innnocence'(「無心のおとずれ」)の冒頭で
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour
ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごごろに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
とうたいます。
さらに、モチーフの類似というだけで全然違うものを引っ張ってきてしまっている感は否めないものの、『維摩経』には
若菩薩住是解脱者、以須彌之高廣内芥子中無所増減。
若し菩薩、是の解脱に住すれば、須弥の高広なるを以て芥子の中に内るに、増減する所無し。
(もし、菩薩がこの解脱の境地にあるならば、宇宙の中心である
高く広い須弥山を、一粒の芥子の種の中におさめても、増減するところがない)※こんな感じだと思うのですが、まちがっていると思います、すみません……
とありました。
東西古今を問わず、小さな一粒の中に宇宙があり、真理があるのです(なんと強引なまとめ……)。
こうしたものを連想するにつけ、『枕草子』のいう「うつくし」とは、弱さ、小ささ、いとけなさといったものを媒介に、形而下の世界と形而上の真理のようなものが、一瞬交錯したときの言葉のように思えてしまいます。
そんなときに胸を突き上げるものは、感動と愛情だけではなくて……その小さな出会いのかけがえのなさ、尊さに打たれつつ、それが次の一瞬にはもう失われる未来をも悟って、愛惜する心に支えられているような気がします。
『枕草子』がどうであるかはともかく。少なくとも、私が秋さんとドイツ俘虜たちの交流に見出している美しさは、そんなふうにいとおしく、刹那的にきらめくものでした。
さてはて、『アンの世界地図』に戻ります。
さらにときはめぐって1918年の3月。収容所ではお祭り、ドイツ博覧会が開かれて、地元の民間人にドイツ兵たちの絵画やお芝居などが披露されました。
すっかり日本語が上手になった大尉と、17歳になった秋さん。
シュヴァンシュタイガー大尉は「美しいものが描きたい と思った時にあなたの顔を思い出しました」とのことで、手のひらサイズの秋さんの肖像画を渡します。やっぱり「美しい」なのですね。
そんな大尉の女装芝居を一緒にみるフッペ。辞書を片手に秋さんにプロポーズ?していますが見事に伝わっていません。それでも全然気づかずに、水兵仲間と大喜びしているのがかわいいです。大尉とフッペが本作の二大かわいい担当ですね。
しかしそんな楽しげな人々をよそに、ゾルゲルには、笑顔がありません。
今まで率先して笑ってきた彼でしたが、ロシアの政権転覆の報をうけ、戦後が厳しくなったことを早くも悟ったのです。
楽屋に戻ってきて、ゾルゲルからことの次第を聞いた大尉は、激して巻き髪ブロンドのかつらを脱ぎ捨てます。ドレスの上に軍服をはおった姿は実にちぐはぐです。
祖国がいよいよというときに何もできない将官たちの惨めさを、このときの大尉の姿は、このうえなくよく示していました。
大尉は見目の良い人で、女装芝居でも人気を博していましたが、このときばかりはひどく滑稽で、悲しい姿でした。
そのあとの水兵たちが新聞を読んで喜びあう姿は、さらに読者に追い打ちをかけてきます。同じ情報を手にしていても、読み取れるものは違うのです。
そのなかの一人だったのでしょうか、水兵がゾルゲルに、「この高揚した空気にぴったりの演目は何でしょうね」「どうでしょうベートーヴェンの『英雄』などは……」と持ちかけるあたり、ゾルゲルの心中察するにあまりあります。
それでもただ苦笑いをして、「仇敵フランスのナポレオン」を歌う曲はやめようと答えるゾルゲル。水兵は「……少尉らしくないことを仰いますなあ…」と返しました。
ゾルゲルの「バンドー大学」がどれだけ根付き、周りの人々の心をしなやかに耕していたのかがよくわかる場面ですが、だからこそ、それが祖国のため、戦に苦しむ人々のために何の役にも立っていない現実が、ただ悲しいです。
もちろんきっと彼が教えたことは無意味ではなくて、その後の兵士たちや彼らの関わった人たちに、きっと何かを残していったと思います。
しかし、ゾルゲルや大尉にとって大切なのは、故国存亡の危機にある今でしょう。さらに、今後のドイツを待ち受ける運命を知る身からすると、この兵士たちの戦後が心配です。
ゾルゲルの導きで、彼らは敵国の娯楽すら愛せるほどに豊かで広い世界の見方を学び、身につけました。世界大戦下では特権的ともいえた幸福を、彼らが悔いてしまわないことを祈ります。悔やんだとしても、せめてそれを憎んでしまわないように、反動にふれてしまわませんように……。
さて、ゾルゲルが出し物に選んだのは、「耐え忍んだ魂が解放された瞬間を歌う その歓喜の交響曲」でした。
1918年6月、俘虜たちが奏でたその演奏が、日本での「第九」初演となります。
口をぽかりとあけて音にのまれるマイズナー。兵卒たちが顔を輝かせて歌う中、次第に、フッペも、マイズナーも、歓喜に酔ってゆきます。
飜えって後方に立って見つめる将官二人に、笑顔はありません。
驚くべきは、作中示される「歓喜の歌」の歌詞が、無邪気な兵士たちと悲壮な将官二人の双方と見事にかみあっていることです。
なにも引用せずに言っても私の思い込みにしか見えないと思うのですが、やはり一連の描写を読んでみないとそのよさが感じられないと思いますので(音楽も漫画も時間芸術ですから)、ここには引用しないことにします。
高揚と悲壮、相反する感情が流れこんでくるようで、本当にオーケストラの音の洪水に飲まれているかのようでした。
実際のところ、この場面の編成は楽器もコーラスも足りない間に合わせ、フルオーケストラには程遠いのですが。
シュヴァンシュタイガー大尉も今はもう、戦局を冷静に語ります。
しかしそこに、ゾルゲルはなにかを読み取ったようでした。「君はプロイセン貴族だ 最後までプロイセンらしく傲慢に居丈高にふるまえ」と言い渡します。
ゾルゲルがさとい人だというのがあるにしても、こんな機微も通いあうようになるほど、四年間相親しんだのですね。
最後はちゃんとオチまでつけて、潔く決めてくれるのが実にこの二人らしい。
冷え切った家庭で、特にのぞみもなく生きてきたシュヴァンシュタイガー大尉が、この地でゾルゲルのような知己を得て、秋さんとの交流から美しいものを得ていたのだと思うと……
彼の愛したドイツ帝国の命運と、彼の個人史の関係を考えると、あまりに皮肉で切なくなります。
しかしそれだけでは終わりませんでした。最後にシュヴァンシュタイガー大尉がゾルゲルに言ったことは、さすがのゾルゲルをも驚かせました。
顔を手で覆いながら「卑怯だ」というゾルゲル。
そのとおり、この一話はただひたすらシュヴァンシュタイガー大尉の魅力に転がされたような感がありました。愛らしい人です。
もともと「ドイツ帝国」にさほど入れ込むことのなかったマイズナーの高揚した呼びかけと、誰よりもドイツ帝国を愛していたプロイセン貴族、シュヴァンシュタイガー大尉の応答をもって、15話は幕をおろします。
彼らが鉄条網の中の人となってからちょうど4年後。皇帝ヴィルヘルム二世の退位・亡命により、ドイツ帝国は滅び、連合国軍に降伏したのでした。
まとめ
2巻13話からたったの三話のあいだに、四年の時が流れました。なんて濃いのでしょうか……
今回はとにかく終盤の、歌詞と場面の重なる描写が圧巻です。初めて読んだときには愛おしさと悲しさと、なにか物質世界をこえた尊いものに触れたという感覚が混ざり合って、号泣したのをよく覚えています。
そこに引かれている「第九」の歌詞、つまりシラーの詩 'An die Freude'(「歓喜の歌」)は人々の連帯、友愛を歌っています。
そのとおりに兵士たちが心を通い合わせていて、またそのとおりに収容所の仲間や秋さんとも心を通い合わせてきたにもかかわらず、今演奏に酔うことのできない二人は、なんと悲痛なことでしょうか。
高揚と悲しみを同時に味わう読者の心も、一緒に引き裂かれるようです。
もともとゾルゲルは、どうしようもない状況下でずっと笑ってきた人でした。
それはすなわち、ずっと演技的にふるまってきた、ということです。
そもそも彼は、他の兵士とはくらぶべくもない突出した知性(とそれを得られるだけの恵まれた環境)を持っていたのですから、素のままに振る舞っていたのでは、この狭い社会でうまくやっていけないことは明らかでした。
その彼が、繰り返しになってしまうのですが、ロシアの政権転覆の報道を受けたとき、笑いません。敵国の娯楽作品であるシャーロック・ホームズでも平気で芝居にかけてきた彼が、笑わないのです。
しかし結局、ゾルゲルは「歓喜の歌」を歌うことを選びました。この感謝と祈りのような詩が、ドイツ帝国の快進撃を信じて疑わない兵卒たちと、命運を悟り、祈ることしかできない将官の間の落とし所であり、またかけがえのない接点だったのでしょう。
そしてゾルゲルは、同じく指揮官であるシュヴァンシュタイガー大尉に、士官であり貴族である立場を貫き振る舞うよう要求します。
それは、私には、能でいうところの直面(ひためん)で演技をしろ、演技し続けろと言っているように感じられました。ドレスを脱いでもオフィーリアでいろ、というように。
今回、状況が転換していく分水嶺は、「お祭り」の中でのシュヴァンシュタイガーの女装芝居です。
プロイセン貴族であり陸軍大尉である人の女装は、15話の前半の流れにあっては、彼の身分を無化する役割を担っています。軍隊という、服装と階級が直結した社会の中では特にそうです。
俘虜中トップにある人がそう振る舞うということは、収容所内に身分社会の常識や軍隊の秩序から独立した人間の集団ができていたことを端的に示すしょう。そしてそんな集団が、日本の民間人との穏やかな交流の下地となったのでしょう。これは、最初に大尉が女装させられたときから変わっていない特性です。
しかし本話では、ロシア革命という転換点が訪れます。そのとき、あんなにきれいだったオフィーリアは、ひどくみじめで、悲しいものに変わります。
同じシェイクスピアでいうならば、異性装だらけの『十二夜』において、様々な価値観が顛倒し、人生が劇的に変化してゆくのが、たぶん私の念頭にあります。
『アンの世界地図』においても、このかなしいオフィーリアを境界として暗雲がたち、俘虜たちが身分をこえて共有していたものが、少しずつ砕かれてゆきます。
最近演技というものに私が関心を寄せているせいでよけいそう思えるのかもしれませんが、このシーンには芝居というもののラディカルな、根本から何かを動かしてゆく力を感じました。
そしてこの「芝居」という要素は、あくまでも士官として演技的にふるまい続けることを選んだ、ゾルゲル、シュヴァンシュタイガーの姿へとつながってゆきます。ハムレットの幕が降りても、彼らは舞台を降りません。
俘虜たちの感じていることがばらばらになってしまっている今があるからこそ、彼らはこの詩をうたうのでしょう。
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menscehn werden Brüde
歓喜の魔力はふたたび結び合わせる
残酷な時代に引き裂かれたものを
すべての人たちは兄弟となる
(ドイツ語詞・日本語訳ともに『アンの世界地図』三巻より引用)
そしてそんな劇的な空間の中で発されるからこそ、大尉がゾルゲルにもらした言葉は、彼の本心だと感じられるのでしょう。素のままに振るまうことが難しくなった中で発されたそれはまるで何か、特別な四年間の墓標のようで……
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
そうだ、たとえ ただ一人だけでも
魂を分かち合う者があるのならば共に歓喜せよ!
(ドイツ語詞・日本語訳ともに『アンの世界地図』三巻より引用)
大尉にとって、ドイツ帝国のために働くことのできない四年間は、最悪の時間だったはずです。それなのに、そこで彼は秋さんや、ゾルゲルと出会えてしまったのですから、もう本当に人生とはわからないものなのだろうな、と若輩の身ながら思います。
とにかくゾルゲル、大尉の二人の言動に、いちいち胸を動かされるエピソードでした。そのわりに感想が脱線し放題だったように思うのですが、とにかく感動したというのは本当ですし、感動したからこそ心に自由が生まれて、好き放題脱線してゆけるのです。
それにひきかえ、今回のマイズナーさんはなかなか蚊帳の外感が強く……
14話のときも書きましたが、誰とでもうまくやり、人のことをよく見ているけれども鋭すぎない彼は本当に語り手として優秀です。帰属意識が若干弱く、わりあいフラットに物事を見てくれるので、文学理論でいうところのかなり「信頼できる」語り手だと思います。しかし見ているだけで人を疑わないので、余計なことを言いません。
このエピソードの出発点は「アキのひいおじいさんは誰か」というじゃっかん下世話な謎なのですから(本作は『ミステリーボニータ』に連載された作品です)、マイズナーさんのような語り手は本当にミステリーにはちょうどよいですね。さきほどマイズナーさんは信頼度の高い語り手だと言いましたけれども、同時に彼が幽霊である以上、大前提としてはやはり「信頼できない語り手」です。その相反する面を持っているところがまた楽しい。
しかし、一人の人間としてみると、鈍感にも敏感にもなりきれず、絶妙に置いていかれてしまう彼のことが不憫です。
結局まとめてしまうと、ゾルゲルも、大尉も、マイズナーさんも、そして今回あまり書いていませんがフッペも、みんなだいすきです。
みんながアキのひいおじいさんだったなら、どんなによかったでしょうか……しかしそうはいかないわけで、次話がどうなるのか(知っているくせに)恐ろしいです。
と、一応このドイツ俘虜編の始発点にまで戻ってこられたところで、今回は終わりにしたいと思います。