※『アンの世界地図』第五話のネタバレを含みます。
九月も一日となり、すっかり秋の曇り空です。
気の早い私は八月半ば頃にはもう秋だ秋だと思っていましたが、いよいよ世の中も秋と思うと時の流れの速さに兢兢としてしまいます。
さて、『アンの世界地図』再読シリーズ第五話です。
扉絵
扉絵は雀卓を前にするアンとアキ。アキは短い髪にどうにか笄をさして花魁装束です。アンのほうはいわゆるローブ・ア・ラ・フランセーズでしょうか。マリー・アントワネットもかくやと思われる、リボンたっぷりのドレス姿です。
今回も第二回同様、次の回を先取りするような扉絵ですね。
第五話の流れ
冒頭は現代日本と西欧のゲームの歴史から始まりました。語ったのはうだつの家ですが、語った内容はマサじいがアンに力説した話の引用です。
熱っぽい語りがすばらしいですが、ボードゲームにまるでなじみのないアンは気のない返事。アンのような境遇では、頭数があってこそ楽しい遊びを知らないのでしょう。
麻雀にだけ反応を示したアンですが、知っている理由は「私が生まれた日も父は麻雀をしていて帰ってこなかった……って母が言ってました」とのことでした。
やはりアンの母は、アンにそれなりに話をしています。内容はきっと娘に言うべきことではなかったでしょうが、それでも会話を持とうとしているのです。他にもし一人でも、代わりに聞いてくれる大人がいたら違ったのではないかと思えてなりません。
続けて、マサじいが孫のマサキを麻雀でしつけて更生させるまでの物語が、当事者であるマサじいの口から語られます。「例のいつもの」といった風情で水を向けるアキのなじみきった様子がとても好きです。
アンはドキドキハラハラしながら物語に聞き入っています。マサじいは途中でヒカルの碁になったりしながら、祖父と孫の熱い物語を語っていきました。
よくみると途中からアキがおねむになり、おそらくアンの肩に持たれて眠ってしまっているのですが、アンはそれも気にせずに夢中で聞いています。マサじいも話し上手なのでしょうが、それにもましてアンの好奇心が印象に残ります。
アンにとっては何もかもが新鮮なのでしょう。そしてマサじいは一生懸命聞いてもらえてうれしかったことでしょう。
さて、そうこうするうちにマサじいの家の猫がお迎えにやってきます。猫がメッセンジャーにくるというのも、猫の様子から妻のお美代さんが呼んでいるとわかるマサじいも、実にほほえましいです。
残されたふたり、アキは思い切りのびをしてまだ眠たそう。一方アンは「大人の男の人」と対話が成立したこと、何を言っても無視されたり流されなかったことに感動していました。よかったですね。
緊張がとけたあとのおっとりとした空気の中で、アキはアンに「アキがハハッて軽く笑うときの声すごく好きです」といわれて少し照れています。私もアキの笑顔は印象に残っていたので、アンに同意です。
アンは「子どもって……あんなに丁寧に育てられてゆくものなんですねえ」「うちは同じことをしてもほめられる日もあれば叩かれる日もあるという感じで なんだかルールがよくわからない家だったので」と感想を述べました。
ネグレクトを受けた子どもは同じような家庭を繰り返してしまうということが言われもしますが、きっとアンは、マサじいやアキというロールモデルを得られたから大丈夫になるでしょう。
そしてやはりアンのおかあさんも、アンのことをほめた日はあったのですね……私は「おかあさん」という言葉が前回と第一回にでてきたキーワードですから、「おかあさん」と「母」を区別してきたのですが、今は自然と、彼女のことを「おかあさん」と呼んでしまいました。
だからといってけしてネグレクトが許されるわけではないのですし、気まぐれなのもむしろ相手をいたずらに傷つける態度です。しかしアンが受けてきた痛みと、アンの母が受けてきた痛みは別々のことです。アンを苦しめたことには反省とつぐないを求めたいところですが、それはそれとして、彼女が苦しめられてきたことにも救済があってほしいと願ってしまいます。
(ここまでで1ポモドーロ)
さて、アンの「ルール」の話を聞いて、アンとマサじいの考え方が似ているのではないかというアキ。「アンの言うことはおもしろいな」と言われて、今度はアンの方が照れています。二人、さらに仲良くなったようです。
そういうアキは「あれはまああくまでお話だからマサキ兄に聞いたらなんて言うかわからないけど」と断りを入れています。
周到で賢く慎重なアキと、のびのびとした発想を持っているアン、何気ないようでいて二人それぞれのことがよくわかる会話でした。
これまでアンについては、彼女のおかれてきた環境と、それに対して彼女がどう対処してきたかという問題に収斂する描写が多かったのですが、元来アンはアンであり、ネグレクトを受けた16歳の女の子ではありません。
アキのもとに落ち着いたことで、少しずつアンは「ネグレクトを受けた少女」から「アン」になってきたようです。読者としても、少しずつ顔を出してきたアンらしさを見逃さないように心がけたいと思います。
おっとりとした空気感に、私も自分の祖父母の家にいったときの、午前十一時くらいのふんわりとゆるんだ、しかしくたびれてしまっているのでもない雰囲気を懐かしく思っていたら、また戸があく音がします。「アキよぅ 暇そうやな?」マサじいの孫、立派な不良に育つもマサじいにより更生させられたマサキでした。
マサじい、猫につづいて3人目の無断で入ってくるお客さんです。田舎とはすごいものですね……しかしいつ来客があるかわからないというのは、いつも部屋をきれいにしないといけないから張りがあってよいかもしれません。
最後はアンの心内語「この男の人が噂の”雀鬼”マサキ……?」を、うだつの家が「です」と引きとっておしまいです。
ちなみに単行本では、5話の後におまけの4コマ漫画が2つと、アリスなアンとアキのカットがあります。アリスアンとうさぎアキがとてもかわいいので、ぜひ見てみていただきたいページです。アキの朝ごはんのレシピが知りたい方も必見。
まとめ
今回もうだつの家が最初と最後の語りを引き受けました。中盤はマサじいによる家族の物語。
男性に不慣れであり、なおかつ家族というものに縁遠いアンにとって、少しずつ男性に慣れ、また家族というものを知っていくよい機会になりました。また家庭教育とゲームというものに関して、一見なんでもないようでいて、実に示唆的な物事がたくさん語られた、奥深いお話でした。
アキとアンの互いにすっかり慣れた様子もかわいらしく心地よく、一緒に読者の方も大分安心できた回だったように感じます。
また今回は、本作の演劇的なつくりが特に感じられた回でもありました。
うだつの家という空間を語り手に据えていることによって、この作品はうだつの家を主な舞台とすることになります。
そしてその舞台に、色々な人がやってきては去ってゆくことで、ドラマが展開していくわけです。
このように家を舞台に据える場合、ふつうならば、家族が大人数であったり、雇い人を多数抱えているようなお屋敷でなくては、停滞してしまうでしょう。それを本作はアンとアキというたった二人の住人で回しているのですから、序盤とはいえ見事なものです。徳島の田舎という舞台設定ゆえに、そこに来客が現れる過程も実に自然でした。
私は『アンの世界地図』はもう何巻か続いてくれたらと、もったいないと思っていたのですが、今こうして読んでみると、停滞することなく潔く凝縮した表現は、やはり見事だと思わされます。
現時点で徳島における登場人物は
- アン
- アキ
- 宮司さん
- マサじい
- マサ兄
まで出揃いました。16歳と老人しかいなかったところに新しい風を吹き込んでくれたマサ兄。年の頃は二十歳で、これまでとは位相の異なる登場人物です。
こうした、毛色の違う人物を登場させる方法が、祖父と孫というつながりを生かしたごく自然な導入であったことに、筆者はまた感嘆しきりでした。
私はトラブル発生に頼って無理に緩急を作ったり、人物を登場させるような作劇法をあまり好まないのですが、本作はそれとは無縁です。
最後に、少し気になったといいますか、私の理解が追いついていないところに触れておきます。
アンが自分が受けてきた家庭教育に関して、「マサじいのお話みたいに物事のルールがきちんとしててくれたらよかったのになあって……すごく思いました」といったとき、アキは少し驚いたような、感心したような顔で見つめ、アンとマサじいは考え方が似ている、二人はよいボードゲーム仲間になれるのではないかと言いました。
アキはアンの考えのどのあたりにアキは「おもしろいな」「いや なかなか考えさせられる」と思ったのでしょうか。本当に大人びた子ですが、大人のはずの私がよくわからないのでもう少し教えていただきたいです、アキ……。私はこの作品のせりふの、説明過剰ではないところが非常に好きなのですが……。
と諦めてしまっては甲斐がないのでもう少し考えてみます。
アンのルールの話に端的にあらわれているように、今回マサじいの語ったゲームの話と家庭教育の話は表裏一体でした。
そこでマサじいのボードゲーム観・教育観をせりふから少し探ってみると、「どついて子どもを躾けたらマサキがわしより力が強うなった時に復讐されるだけの話やけん」「マサキは麻雀の仕返しを麻雀以外ではせえへん……誰にも麻雀の相手してもらえなくなるけんじゃ ほんで弱いもんを相手にすることもない 格下をいたぶっても面白うないことを麻雀から学んどったんじゃ……弱い自分が強いわしにいたぶられる痛みもよう知っとったけんなあ……」といったせりふが目に付きます。
簡単にいえば、ゲームは社会性を学ぶことのできる場だ、ということでしょうか。
それはたしかにとても納得できます。動物も兄弟姉妹と遊び、喧嘩をするなかで、どの程度のことはしてもよく、どの程度はしてはいけないのかを学ぶのですから。
私は自分の社会性のとぼしさを常々恥じているのですが(それは人嫌いとはちがいます)、確かにゲームやスポーツの楽しさをあまり感じないままおとなになりました。
どちらかといえば、屈強な人々が同じ服を着て棒を振り回し、ボールを追い回しているような様子がおかしくて、吹き出してしまうような子どもでした。
どうしてそんなに鍛えているのに、そのまま戦わずに胡乱なことをしているのか、面白くてしかたなかったのです。
思い出せばほかにも、レストランでホールのアルバイトしていたころ、お客さん達がビュッフェでまじめに並んでいるのを見たら笑いが止まらなくなってしまったときや、ヤクザ映画で丁か半か!とやっているときに爆笑してしまったこともありました。
ルールにのっとって、人が互いに協調しあっている様子が、あまりにばかばかしくて、どうにも面白くてしかたなかったのです。「人間ごっこ」にしか見えませんでした。
……言語化し、客観視してみるとなんて嫌な考え方なのでしょう……
うっかり自己嫌悪の方が強くなってしまいそうですが、『アンの世界地図』に戻ります。
アキはなぜアンの発言をおもしろいといったのか。それは、麻雀を通した家族のほのぼのストーリーともいえるお話から、一番本質的なルールというものを汲み取ったこと、そしてゲームと家族のあり方を重ねてみたところでしょうか。
ゲームというものは、本質的に共同幻想によってしか成り立たないものです。
ボールを必ず蹴らないといけない、手で触ってはいけないなどということは、ゲームが行われている間の、プレイヤーの共同幻想の中でしか意味を持ちません。さいころをふって出た目だけしか進めないというルールは、守る人がいるから成立します。
それはおそらく家族も同じであろうと思うのです。血がつながっている場合が多いとはいえ、自分以外の人間はすべて他人です。「家族」という共同幻想を、ともに形作っているからこそ、他者との今日に耐えられるということがいっぱいあるでしょう(それでも耐えられないこともたくさんあるでしょうが)。それは一種の共犯者的な関係です。
特に日本語は、家族の中で一番年少のものの目線から、家族内の人称が決まる言語なので、たとえば子供のいる家庭の妻が夫を「お父さん」と呼び、孫のいる家庭の祖父が「じいちゃん」と自称する、というような現象がおきます。この特徴は、構成員に家族という幻想をかたちづくらせる機能を強く担っているように、私には思われます。
私はこの日本語の特徴が、非人間的に思えて好きではありませんでした。よりによって、一番非力な子供の目線から、家族内での役割を強いてくるあり方が卑怯だと感じていたのです。
しかし、アキが「家族っていいな と思う話じゃない?」と言ったように、今すこし、考え直してみたいという気持ちになりました。
かつてわたしが野球を馬鹿にしビュッフェを馬鹿にしたように、共同幻想というのは、幻想の埒外にいる者には奇妙でこっけいなものに見えます。しかし、視点をたがえてみればどうでしょうか。
こうやって、少しずつ自分を変えてもらう経験は、実に心地がよいものです。
共同幻想という言葉は、『アンの世界地図』においてこれからもきっと重要になるテーマだと思います。私はもちろん先の展開を知っていますから、もしかしてそのことが脳裏にあって、遡及的に今「共同幻想」という言葉を持ち出してしまったのかもしれません。
しかし、判断するのは後から振り返ってまとめるときでよいでしょう。今しばらくは、表面的にはばらばらに見える「家族」「ボードゲーム」といった要素が、深く地下茎を伸ばしているすがたを想像していたいと思います。
【追記】せっかく感想を書いているのだから、もうごりごり宣伝しようと思ってリンクを貼ることにしました。私にお金は入りませんが作者さまと出版社さまには入ります。よろしければぜひ。