されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『アンの世界地図』全話再読(14)

※『アンの世界地図」2巻14話のネタバレを含みます。

 

 

『アンの世界地図』全話感想、ついに二巻の最後まできました。

私の中の鉄は今熱いので、早くドイツ俘虜編を読んで、書きたいと思っていることがあります……!

が、本当に一言一句無駄がないので、大事なことだけ書こうとしても結局あらすじをなぞるようになってしまうのが辛いです……!ネタバレを、したくてしているのではないのです神様……!!!

 

扉絵

扉絵から語りが始まるスタイルです。一巻5話の扉絵ではアンが語り始めていましたが、今回はドイツ俘虜編の語り手、すなわちマイズナー氏の語りです。

百聞は一見にしかずということで、久々に扉絵を引用してみます。

 

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2巻14話より

ちなみに扉絵の前には単行本のおまけとして、アキの4コマ漫画と兵卒・下士官・士官(将校)についてのわかりやすい説明があります。

後半はアキ成分が薄めなので、うれしいおまけです。

 

 

流れ

鉄条網ごしにマイズナーさんが見つめていた美少女は、郵便屋の「マサやん」と知り合いのようでした。

たもとの長い着物(現代なら小振袖とでもよぶでしょうか)に市松模様の帯を胸高にしめて、半襟帯揚げもたっぷり出しています。いかにも昔らしいおおどかな着方で、いいところのお嬢さんだなあ、と思う出で立ちです。

 

「どしたんな秋 こんなとこまで散歩か」と声をかけられているので、やや距離のあるとはいえ徒歩圏内に住んでいるようです。

彼女は屈託のない笑顔で「ドイツさんの収容所」見物にきたと答えます。

二人の会話の矛先が自分に向かったので、マイズナーさんは思わず挨拶しました。マイズナーさんが日本語が分かると知った「秋」は恥じ入ったように顔を赤らめ、眉をよせて顔をくもらせて、深く一礼して去ってゆきました。

おそらく秋はわずかなあいだに悟ったのでしょう――言葉の通じない相手だと思って、自分が他者(それも敗者)を見世物のように扱ってしまったこと、「ドイツさん」は同じ人間で、その同じ人間が今鉄条網の中に囚われているのだということを。

聡い子です。

 

 

その後場面は切り替わって、日暮れ時。マイズナーさんはゾルゲルと雑談しています。 秋さんにハートマークを飛ばすマイズナーさんと、故国の新聞や雑誌にハートマークを飛ばすゾルゲルの対比が面白いです。 郵便屋のマサやんに、マイズナーさんはシュヴァンシュタイガー大尉への郵便物があれば預かると言いますが、届いていないとのことでした。

 

二人がいた空間はどういう場所なのかさだかでないのですが、テーブルがあるので居室ではなくロビーのようなところです。会話の内容からして、おそらくそこで郵便物を受け取る場所として指定されているのでしょう。

そこから出ていくと、フッペに出くわします。

 

 

タバコをすいながら「やあ学者先生」と挨拶するフッペ。演劇好きの彼は、ゾルゲルとずいぶん親しいようです。

フッペは「親兄弟がいなくても友達がいっぱいいりゃ寂しくねえと思ってやってきた」のだそうですが、「収容所にまで手紙をよこすのは親か女だけだな」とのこと。「あー早く国に帰りてえな!」という彼を「今はこの状況をなるべく楽しもうじゃないか」と、ゾルゲルが慰めました。

 

何気ない会話のように思えますが、ゾルゲルは海軍の士官ですからフッペの上官にあたります。ゾルゲルは終始ふざけているような振る舞いですが、実のところ管理職としての仕事をきっちりしていますね。

こういうところ、「故郷を懐かしむフッペをゾルゲルが慰めた」と一言でまとめてしまいたいのはやまやまです。しかし、どうにも一言一言の情報量が多くて……!やはりどうにも見過ごすわけにいかないのです。 

 

フッペはつづけて、先日のゾルゲル監督の芝居の感想を言おうとしましたが、マイズナーがいるのをみやって遠慮しました。

ゾルゲルは「案外と繊細な男だよ」と言います。マイズナーは振り返ってフッペをみやりつつ「そうか……彼の待ち人から手紙がくるといいな」と言います。フッペは長いこと待っていたのでしょう、誰を待っていたのでしょうか。手元には、吸い殻が何本も落ちていました。

 

 

マイズナーさんはここでいいことを思いつきました。収容所内で郵便局を作るのです。楽しげな笑顔で提案していますが、そのとき彼の頭には、故国からの手紙が届かないフッペ、シュヴァンシュタイガー大尉の姿が浮かんでいました。

最終話を知る者の目からみると、これが実に感慨深く思われましたが、今は深入りしません。

 

 

それから場面はうつろい、マイズナーさんとシュヴァンシュタイガー大尉が洗濯にいそしんでいます。大尉がこんなことをするとは、ずいぶんこの環境に適応したようです。

そこにゾルゲルが大量のファンレターを届けてくれました。

収容所内郵便局が実現したわけですから、移ろったのは場面だけではなく、時間もそれなりに経過していた模様です。

マイズナーさんは演劇のファンレターで釣ってゾルゲルを抱き込むことに成功したのですが、結局名女優にファンレターが集中してしまったのでしょう。

 

ゾルゲルいわく、大尉は「ユンカー独特の軍人的な所作(シュトラム) 他人を魅了する雄弁さ(エロクエンス)!」というものを備えているとのこと。

ドイツ語がいっぱいです(2つですが)。

ルビをふってでもドイツ語で書きたい言葉であるということは、おそらく、この2つはドイツ語独特の概念なのでしょう。「あはれ」がどうにも言い換え難く「あはれ」としか示せないのと同じように、きっとドイツ語という言語や社会に深く紐付いた概念なのではないかと想像します。

と思って辞書を引くと……eloquenceは英語にもある単語です。が、シュトラムはどうしてもシュトルム・ウント・ドラングの方が出てきてしまって埒が明きません。困りました。先に進みます。

 

 

場面は松江所長と部下の会話にうつろい、それからマイズナーさんが大谷焼の窯元見学にゾルゲルを誘うところに移ります。

この一連の変化をつないでいるのは会話なのですが、移り変わりが実に自然ですばらしいです。松江所長が開放的な方針をとる理由、理にかなっていました。

 

 

さて、大谷焼見学というよりも、窯元にいるという美人の娘見学が楽しみでしかたがないマイズナーですが、ゾルゲルはもとより物書きに余念がありません。ちょうど居合わせていた大尉も、自分には妻がいるといって断ります。

 

のりのりで大尉の奥方の写真を拝見しようとするゾルゲルですが、夫婦仲は冷え切っているよう。大尉のロケットの中身には笑わせてもらいました。

大尉はゾルゲルに何をされても怒らずに犬と遊び、結局押し負けて大谷焼見学にゆきます。すっかりかわいらしくなってしまいましたが、「人生を楽しんでいる人間はこれだから厄介だ 淡々と生きている人間を大罪人かのように言うのだから」と嘆息します。

 

歴史ある家に生まれたからこそでしょうか、自己効力感の低さが感じられる言葉です。後々を知っている既読者としては、こういうところがあの人にも引き継がれるのだろうか…と少し思ってしまいます。

 

 

しかし大尉がそんなことを言っていられたのもわずか1ページのことでした。

窯元の娘とは扉絵の「秋」だったのです。シュヴァンシュタイガー大尉のエロクエンスはすぐに発揮されることになりました。

シェイクスピアが染み付いているひとの口説き文句(のつもりはなかったのでしょうが)というのはすごいですね……。

 

窯元さんのおうちにあげてもらった二人。マイズナーの座り方はよく見えませんが、大尉は正座できていません。

そして、そのおうちは……この屋根、この縁側……「女の子にとってとても大切なものだよ」(11話)のあのアングル……!

 

と感動する読者をよそに、マイズナーは、「ドイツさん」という呼び方を改めてほしいと秋さんにお願いしました。こういうことをさらりと、屈託なく言えるのはジャン・マイズナーという人のよいところだと思います。

大尉がプロイセン貴族であることは読者には既知の情報ですが、マイズナーがザクセン人だということは、ここで初めて明かされました。

 

 

夜、収容所に帰ってきたマイズナーは相変わらずハートマークを飛ばしています。しかし、新聞らしきものを読んでいたゾルゲルから漂っているものは、ハートマークとは程遠いものです。

出立前との対比がきいていますし、予備少尉とはいえ将官ゾルゲルと、どこまでも民間人のマイズナーの対比もきいています。何よりゾルゲルという人の先見の明が、ひしひしと伝わる描写です。

 

一方、「淡々と生きて」きたという大尉は、どんな顔をして秋さんのところから帰ったのでしょうか。

ちょっと見てみたい気もしますが、それがわからないのはマイズナー視点での語りだからです。何もかもを見抜いてしまうわけではないけれどもそれなりに誰ともうまくやるマイズナー、しかし肝心のところは見られないマイズナー、ミステリー向きのいい語り手です。えらい!

 

 

さらに場面は移ろって、農家出身のフッペと、通訳として駆り出されたマイズナーが、地元の女性たちに農業の技術指導をしています。「ドイツさん」と言われ続けてお怒りのフッペに、秋さんが名前を尋ねました。

秋さんの笑顔に毒気を抜かれてしまったフッペに、マイズナーは嫌な予感をつのらせました。

 

予感は的中します。その後のフッペのわかりやすさと健気な頑張りはまったくかわいいものでした。いつのまにか、日本語の教科書を売っていたマイズナーのたくましさもなかなかです。

こういう屈託のなさがやはりジャン・マイズナー氏なのだと思います。いえ、彼には彼の複雑さがあるのだと思うのですが、少なくとも、ドイツ帝国の中でのあれこれに対しては、彼は一歩引いた目線で見ることができます。

これは三巻のあとがきのネタバレなので、これ以上言うわけにはいかないのですが……!人物設定の妙を味わえます。

 

 

マイズナーが教科書を売っていたそこは、収容所内印刷所であり本屋で新聞社であり、ゾルゲルの創造の場でした。マイズナーはずいぶんゾルゲルと一緒にいるものだと思ったのですが、そこからのつながりだったのですね。

 

イングランドとは戦争中だけれども気にせずに、シャーロック・ホームズを舞台にかけることにしたゾルゲル。フッペも目を輝かせてポスターに見入りますが、シュヴァンシュタイガー大尉の名前を見つけて「学者先生……またあのプロイセン貴族を使うのか?」と尋ねます。

この丁寧な聞き方にフッペの人となりが現れている気がします。嫌な相手にはシャイセ連発ですが、敬意を抱いている相手にはここまで気を使うのですね。

フッペにとってゾルゲルは上官ですが、上官だからではなく相手が「学者先生」だからこう接しているというのがよく伝わってきます。

 

ちょうどそこに、大尉が現れます。一応歩み寄りの姿勢を見せる大尉ですが、フッペの応答は実に端的。対話がなりたちません。

入所日の自分の対応がまずかったのかと気にする大尉に対して、ゾルゲルが指摘する言葉もまた実に端的です。

その後のゾルゲルの長台詞は、100年前のドイツのみならず、現代のアンにまでかかってくる大事なせりふなのでここでは引用できないのですが、必ずやちゃんとまとめて書きたいところです。

 

 

事実、ここで一度マイズナーの回想はとぎれ、口をあけて聞き入るアンが映されます。

幽霊のマイズナーは生まれ落ちた言葉と愛情の関係について総括します。

その背景に映されているのは、日本語の教科書を頼りに秋さんと話すフッペと、笑顔で応じる秋さんの姿です。

フッペも、名実ともに「新しい言葉」で話しはじめていられたのですね。

 

 

ただし、フッペにとっての「新しい言葉」は日本語でした。

 母語であるドイツ語がフッペにとっての「新しい言葉」になれなかったことは、重く私にのしかかります。

思えばルーマニア(現在はウクライナ)出身のドイツ系ユダヤ人の詩人、パウル・ツェランが両親に教わった言語はドイツ語でした。彼を強制労働につかしめ、両親の命を奪った者たちの言語もドイツ語でした。

生還した彼が精読した哲学者、ハイデガーが思考した言語もドイツ語であり、ハイデガーが1945年まで党費を支払い続けたナチスが用いた言語もドイツ語でした。そしてツェランは何かと戦うように、ドイツ語で詩を書き続け、セーヌ川に入水しました。

ツェランにとってのドイツ語が母語であり、虐殺者の言葉であったのと同じように、きっとフッペにとってのドイツ語も、母語であり、征服者の言葉でした。

ツェランは詩を書き続けて、徹底的にその言葉と向き合いました。一方本作のアンは、母の言葉を捨てて自分の言葉を話しました。

フッペはこれからどうしてゆくのでしょうか。

 

 

この「新しい言葉」の話は、12話のアンと幽霊マイズナーさんの、言葉の話の続きです。

振り返ってみると、幽霊マイズナーは問わず語りに100年前のことを話し始めたのではありません。アンが、アキの祖先もドイツ人なので心当たりはないか、と尋ねたところから、回想と答え探しが始まったのでした。

その答えを探しつ、12話の流れを受けてアンへのフォローにつなげてきた幽霊マイズナーさんは、さすが通訳、話し上手です。

 

さて、この14話でアキそっくりの「秋さん」が、マイズナー上等兵、シュヴァンシュタイガー大尉、フッペ兵曹と出会います。ゾルゲルとは出会っていませんが……戦局を見抜いている彼はそれどころではなさそうですから、秋さんをめぐるドイツ兵たちの関係は本話で始まったといってよいでしょう。

いよいよ次あたりでアキのご先祖さまがわかりそうなところ、アンはもう夢中になって聞いていたようで、先を先をと促します。

それに対してまた意味深なことを言うマイズナーと、また意味深な大尉とフッペの一幕で、2巻はおしまいです。

 

 

まとめ

今回は名場面・名台詞だらけでいっこうまとまりません。こういうときにこそまとめが必要なのですが、うまくできるかどうか。

 

 

まず人間関係について。

ゾルゲルは同じ海軍で演劇好きというところからフッペと、同じ将官ということで大尉と親しいようです。マイズナーとの関係は、言語絡みの仕事というところからでしょうか。

マイズナーは通訳であることに加えて新聞社を始めたことにより、あらゆる人と人の間を行き来する存在となりました。ただし大尉とは従卒(収容所入所日が初対面のようですが)として、ゾルゲルとは新聞社兼本屋兼印刷所の仲間として、特に近しいようです。

フッペ、大尉はともに家族との縁も薄く、ゾルゲル、マイズナーほどの社交性は見せません。

 

また、マイズナーは三か月前に徴兵された、しかも日本に暮らして長い民間人です。職業軍人の大尉、フッペ、将官ゾルゲルとは、根本的に立場がちがいます。

ただしゾルゲルは、もともとは北京大学に勤めていたのですから、職業軍人でもありません。

そう考えると、この主要人物四人の中で、一番全員と親しく、一番共通項を持っているのはゾルゲルなのでしょう。ゾルゲルのみ出身地がわかりませんが、「○○人」のように生まれ落ちた地・家で説明されることなく、その能力・教養・人となりでもって説明されるあたりが彼らしいと思います。

教養というものは人間に普遍性を与え、他者とつながる可能性を与えてくれるものなのだなと、しみじみ思います。

 

それに対し、生まれ落ちた境遇から出ていく力を持たないという点で、フッペと大尉は似ています。逆にマイズナーは 、きっとどこにいってもエトランゼなのでしょう。

 

 

それから大切な場面・せりふを箇条書きでまとめてみます。

作品全体に関わる部分だと、この二点でしょう。

  • 今はこの状況をなるべく楽しもうじゃないか(ゾルゲル)
  • 呪詛、罵倒、愛の言葉、新しい言葉(ゾルゲル)
  • 幽霊マイズナーによる総括(12話に対応)

 

ドイツ俘虜編において重要なのは、

  • プロイセン貴族、ザクセン人、アルザス人の違い
  • ひたすら民間人のマイズナー
  • 収容所内郵便局の設立
  • 収容所の暮らしにだいぶん順応したけれどもまだ正座はできない大尉
  • 故国からの郵便物を読んだゾルゲル
  • それでもホームズを舞台にかけるゾルゲル

 

 

……まだあったような……全然まとめられた気がしないのですが……もう少し先にゆけばふりかえってまとまることもあるかもしれません。とりあえず今日のところはここまでにします。