されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

アキの着物と物語る「家」――『アンの世界地図』

【2020.7.22 改稿・再投稿】

『アンの世界地図』について、以前一連の感想記事を書いたことがあった。

そのときも、筆慣らしに着物のことから書き始めた。

今回、それらの記事を加筆修正するにあたっても、着物を足がかりにしたいと思う。

ネタバレは極力避けていますが、示唆している部分はあるので未読の方はご注意ください。

 

 

『アンの世界地図』は、アンとアキの物語だ。

アンは東京出身。ネグレクトを受け、アルバイトとコンビニの半額弁当でその日その日をしのぎつつも、誇り高くロリータファッションをまとっていた。しかし母親に服を台無しにされたことをきっかけに家を離れ、四国、徳島へと流れ着く。

 

一方のアキは、徳島で生まれ育った。立派な日本家屋で着物を日夜まとい、着物を縫って生計をたてている。暮らしぶりは質素だが料理上手で、歴史に支えられた豊かな生活文化の中で暮らしている。

今回はこの二人のうち、アキの装いに注目したい。 

 

アキのおきもの

アキが着ているのは、完全に普段着としての着物である。
日頃、小紋に半幅、下駄のすきっとしたいでたちに、必要に応じて割烹着などをあわせている。
筆者も一応着物を着るのだが、外出用のものしか持っていないので、読むたびにアキの装いに憧れる。着ているもの一式真似したいくらいだ。

 

コーディネートもさることながら、とかくその着方が見ていて心地良い。

アキの衿元はいつもぴっしりときれいだ。体にぴったり合うものを、丁寧に身に着けていることがよくわかる。

着物を着る人ならば、覚え始めのころに、衿がふわふわ浮いてしまったり、ぶかっこうになってしまった経験がきっとあるだろう(私だけではないと思いたい)。衿が決まらないときは、土台となる長襦袢が決まっていないのだ。もたもた着ると、着姿もぐすぐすになる。

アキは一つ一つの手順を丁寧に、しかし手早く着ているのだろうなと想像される。 

 

しかしアキの着方は、現代の着付けの教科書のような、かたくるしいものではない。アキの帯の上には、しょっちゅうゆるんだ生地がのっている。

それは、着物を着て暮らしているからこそできるたるみであり、着ているものがマネキンではなく人間であることの証拠である。お人形のようにおすまししていたのではなく、一日中動き回って働いていたことの現れだ。

 

体にぴったり合うものを丁寧に身につけるうれしさと、その格好でいっぱい働いた一日のよろこび、そういうものが、アキのぴっしりきれいな衿元と対照的な胸のあたり、

働いてゆるんだ布地が帯にのるあたりに見えるような気がする。 

 

筆者もかつて、着付けの先生に「しわ1つないよりも、少し胸紐のあたりがたるむくらいのほうがいかにも着慣れていて素敵だったりするものですよ」と教わった。

「それでも先生みたいに、江戸っ子みたいなすっきりした着方がかっこいいと思うのだけどな」と思っていたが、本作を読んで、これのことだったのか、とようやくわかった。

 

とまれ、百聞は一見にしかず。

『アンの世界地図』はときどきプロモーションで1巻無料になることがあるので、その一巻の中から、いくつか具体的なシーンを引用してみたい。 


おつとめのあとは半幅で原付


一話。いきなりアキの着替えシーンがある。

バイトを終えたアキは制服をぬぎ、普段着の着物に着替えて原付で帰宅する。
その着替え途中の描写も大好きなのだが(伊達締めをしめるときの「くい」という仕草!)ここではコーディネートに注目したい。
おかっぱ頭に小紋にメット、帯と原付の取り合わせ。

 

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帯は半幅帯、博多織だろう。半幅というのは浴衣帯にも使ったりする、幅の細い帯だ。普段着であれば着物にもあわせる。

 

結び方はおそらくだが、角出し風に見える。

筆者は「角出し風」という名前で習ったが、「涼風」だったか、何か「風」という言葉の入った呼び方もあると、聞いた覚えがある。

この帯結び、ぴっとしまって心地よく、落ち着きと軽さが共存していて筆者も大好きな結び方だ。

気持ち短めな裾も、風呂敷包みの身軽さも、心地よい。

このいでたちで風を切り、夜を切って走ったら、どんなに楽しいだろう。 


帯の手先が風を受ける風情を想像するだけで、

バイト終わりの開放感と初夏の暮れ方の風が伝わってくる。

 

こんなことを書くと、うがちすぎではないかと思われるかも知れない。

しかし着物のよいところは、同じ着物や帯、小道具でも、着るときの衿のだし方や帯の結び方、紐のしめぐあいなどで、そのときどきの自分に一番ふさわしい装い方を選択できることだ。

 

『アンの世界地図』の作者、吟鳥子先生は私は及びもつかないほど着物に親しまれている方である。

このシーンだって、アキの装いが、そのときアキを取り巻いていた世界と無関係に選ばれているはずがない。着替えるシーンまで描かれていたのだからなおのことだろう。

このシーンのアキは雑誌のモデルのように、絵的に映えるから着せられたのではない。自らこの帯結びを選んでいるのである。

 

そう考えるならば逆にひっくり返して、帯結びからアキが感じていることをたどっていく読みも、十分可能だろうと思う。

半幅ならば、もっと少ない手数ですむ結び方がたくさんある(浴衣ではなく着物なので、多少はしっかりした結び方でないと釣り合いがとれないとはいえ)。仕事あけで疲れてもいる。そんなときに角出し風を選ぶアキの、自分自身との付き合い方に、私は憧れている。


軽やかつばめに重たげお太鼓

こちらは3話から。長襦袢は略し、大ぶりなつばめの柄の着物を着ている。

浴衣だろうか、単衣だろうか。いずれにせよ暑いのだろう。

 

着物を着る人間にとって、四月~五月というのは年に二回の衣替えの時期であり、ことに暑さが身にしみる時期だと思う。六~七月頃になるともう夏も本番ということで観念するのだが、五月はまだ夏の訪れに心身がとまどっている。
したがって当然、人によって着方がゆれる時期だ。暦では袷(裏地付きの着物)は五月までということになっているが、実際のところは相当暑い。

日常的に着ている人であれば、このあたりの約束事はあまり杓子定規に守らない。アキの着くずし方は、いかにも着慣れている、と思わせる。


このアキの鎖骨の見えるしどけなさと、たすきを掛けたまじめぶりは、
ちょっと目に毒なコントラストだ。
帯は角出しをゆったりと結んでいるようだが、華奢な体つきに対して、お太鼓が大きく重たげにみえる。それがなんとも夏らしい。浴衣に名古屋帯を合わせているのならば、さすが着物で暮らしている人だ。

アキはときおり襦袢を略して着物を着ているときもあって、本当に着物が日常の中にあるのだと感じる。

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アキはほっそりしているだけに、大ぶりな柄を着ると体の薄さが際立つ。けだるく大きな帯結びとのアンバランスがより利いて、また色っぽい。

 

しかしこうして読み返せば、3話の段階ですでにアキがリラックスした様子を見せていることに、改めて驚く。

ここでアキに対して「そんな急がなくても…」と声をかけている少女が、アンである。

アンは1話でアキと出会えたことにより、それまでとは全く違う人生を歩みだすことになった。

 

一巻を見ている範囲では、本作は「砂漠のような大都会を抜け出した少女アンが、田舎暮らしのアキと出会って救われる物語」に見えてしまうかもしれない。

しかし、この着方を見ていると、本当はアキもアンにずいぶん早く慣れたのだと、
アキにとってもアンが来てくれたことはありがたかったことなのだと、改めて気付かされる。


『アンの世界地図』の語り手

最後にとりあげるのは、もう一度第1話。
ここまで言及してこなかったが、この作品には、語り手がいる。

それは驚くべきことに、「家」だ。

 

語り手というのは、「物語」を作るために欠かせない存在だ。『源氏物語』も、この語り手を生かしてたくみに読者の心を操った。近代の小説家であれば、芥川龍之介は語りによって読者をあざむき、太宰治は語り手そのものを解体してけむにまいた。語りは長い蓄積を持つ表現技法である。

 その表現史の中でも、「家」を語り手に据えるというのは相当に新鮮な方法なのではないだろうか。

執事など、家に付属するものを語り手に据える例ならばカズオ・イシグロの『日の名残り』が浮かぶのだけれども、そもそも英語は無生物を主語に据えることもできる言語であるし、日本語の場合とは事情が違うような気がする。 

 

 

しかし「家」を語り手に据えることは、ただ新しいだけのギミックではない。

この語り手の設定は、近世から現代にいたる家族や土地の歴史を切り取ってゆくために非常に有効であり、しかもそれだけにとどまらない重要な役割を果たしている。

 

まず「家」を語り手とすることは、「家」という舞台装置的に捉えられそうな、自明のものとして透明化されてしまいそうなものを、絶えず視界に映り込むフレームとして機能させることである。言い換えれば、「家」というものを可視化している。

 

そしてその絶えず映り込むフレームは、巨大な世界の地図の中で物事を見つめる視点を「家」というひとところに定める。

「家」を視座にすえる限り、そこに暮らした人びとが、その時間と空間の主人公だ(住居論である『方丈記』が一人の隠者によって乱世のただ中に書かれていたのにも、改めて納得する)。

「家」はうねる歴史の流れの中にうちおろされた錨となり、無名の人たちの人生を歴史の流れの中から救い出している(私は今度は、ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を思い出している。技法は全然違うのだけれども)。

 

 

その錨は、これから先の時間を生き、移動してゆく人間を物語るためには足枷ともなりえただろう。

しかし「家」は語り手である。沈黙することもできる。他者に語り手の座を譲ることもできる。本作がよい意味でファンタジーなのは、この語りの流動性ゆえだ。

 

もとより、「家が人間のことばでしゃべる」などということは、現実では考えにくい。

語り手を「家」とする物語の始め方は、本作をファンタジーとして自己規定する効果も持っているだろう。そしてファンタジーだからこそ、本作の語りは自在にスライドする。ファンタジーだからこそ、読者はその自在さを受け止められる。その自在さが、「家」が「枷」となってしまう事態から、物語を救っている。

 

 

物語は「家」という語り手を鍵として家族の歴史をとらえつつ、「家」にとらわれることなく人間を描き続けてゆく。この語り手の設定は、何重にも見事だ。

 

ネタバレを避けると随分抽象的な話になってしまった。そしてまた、私の連想もあちこちに飛び立ってしまったが、無駄に衒学的な記事と見えてしまっていないことを願う。

 

井戸の前の子ども

さて、遠回りしたが第1話に戻ろう。そこでは語り手、「うだつの家」が、一人の子どもを心配している。
おかっぱの、眉がけざけざと美しい10代の子どもだ。
1巻を読んだときは、アキの過去に何があったのかしら、と軽く読み過ごした場面だった。


(以後5巻の内容をかすめますからお気をつけください)

 

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だが、帯に注意したい。

アキが普段している帯結びというのは、凝ったものではなかった。

半幅ならともかく、名古屋帯の角出しというのは、若い人がよく結ぶようなものではない。
先ほどとりあげなかった場面でも、かるた結びや貝の口など平面的で着やすく、渋いものが目に付く。

 

それに対してこの井戸の前の子どもは、ずいぶん華やかな帯結びだ。
筆者には種類がよくわからないが、左右両方に羽根があり、たれの上にも羽根が作ってある。
ずっと家事をしているアキは到底結びそうにない、立体的な帯結びだ。
……つまりそういうことだ。

 

このシーンはモノクロの漫画ならではの表現である。

あまりにも自然だったため、筆者も今回読み返すまで帯の違いに気が付かなかった。

こうしたものを見ていると、漫画という総合芸術の力、表現の可能性にほれぼれとしてしまう。

 


この帯の違いは実に自然で、読み飛ばそうと思えばやすやすと読み飛ばせる。

漫画なのだから、コマ割りによって帯に注目を集めることもできたはずだ。しかし本作は、そうしていない。それはこの帯の違いが、読者に気づかせないと誤読を招くような、必然性のある仕掛けではなかったということだろう。

 

先にことわっておくが、必然性がないからよくない、などと言いたいのではない。逆だ。

必然性がないところにもこのような違いが出てきたということは、それは読者に何かを伝えるために、わざわざこしらえられた違いではない。

人物一人ひとりの生活の違い、その人が背負ってきたものの違いが、そのまま衣服に現れているのだろう。

この現象は、この作品に出てくる衣類が「衣装」ではないということの現れだ。

そしてこの作品が、一人ひとりの生活と、その積み重ねである人生を描いていることの現れだと思う。

 

 

 今回は衣類に注目したが、それだけではない。

この作品には、アキが作りアンの着る服があり、

アキが作りアンとともに食べる食事があり、そして語り手の「うだつの家」がある。

人の暮らしの根幹、衣、食、住がある。

 

人の生活を通して何かが描かれているのを見ることは、よくある。そうした作品も面白い。

しかし、人の生活そのものが描かれた作品に出会うことは、案外少ない。この作品は私に稀有な経験をもたらし、私に生きる力を与えてくれた。

それは、功利的な読書と似て非なるものなのだ。