されど汝は踊らでやまず

タイトルはトーマス・マン作、実吉捷郎訳『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫)より // 漫画等の感想を書きます。記事は公開後も推敲します。

『将国のアルタイル』の国名・地名小考

※今回『将国のアルタイル』のストーリーに関するネタバレは一切ありません。

 

将国のアルタイル』は、ルメリアナ大陸を舞台に様々な国家・人々が躍動する世界を描いています。ルメリアナ大陸は架空の大陸ですが、そこにはユーラシア大陸の中世ヨーロッパの面影があり、いくつかユーラシアの国家がモデルであろうと推定できる国家も登場します。

今回は、その国家等に与えられた名前について、筆者の考えた断片的なことがらをまとめてみたいと思います。

 

 

なお、モデルを踏まえた読解に関する筆者の姿勢については詳しくは別記事にまとめたいと思いますが、毎回そんなことから述べていては話がややこしくなりますので、今回は思い切って簡略な表現をとります。しかし、けしてユーラシア大陸での現象と、ルメリアナ大陸での現象を混同しているわけではありません。

また、カタカナはユーラシア大陸の他の文字に比べて音声を細分化して示すことのできない文字ですから、適宜作中のラテン文字表記を参照しています。 

 

モデルの明白な地名

さて先述の通り、ルメリアナ大陸の国々のなかには、ユーラシア大陸にモデルがあるだろうと明らかにわかるものがあります。そして、「ヴェネディック」がヨーロッパのヴェネチアを想起させるように、名前がモデルを示す役割の一端を担っていると考えられます。

そこでまずは、ユーラシア大陸の固有名を明白に想起させるだろう地名をリストアップしてみます。

 

  • トルキエ……テュルク
  • バルトライン帝国……バルト(Baltic)海周辺、ライン(Rhein)河流域(9巻46話)
  • 大秦(チニリ)……秦やそれに象徴される中華王朝、ないしローマ帝国
  • ヴェネディック……ヴェネツィア
  • フローレンス……フィレンツェ
  • ポイニキア……フェニキア

 

並べてみると、おおむね作中の情勢を左右する力を持った国が揃っています。これらのモデルが名称によりわかりやすく示されていることは、読者にとってルメリアナ大陸を大勢の把握する助けになるでしょう。特にヴェネディック、フローレンスの2国は、ヴェネチアフィレンツェと似た振る舞いを見せます。無論、世界史のことを知らなければヴェネディックを理解できないわけではなく、知っている人はより面白く読むことができる、というレベルのことです。

ただしポイニキアに関してはローマ帝国コンスタンティノープル等の他のモデルとの距離の方が近いようです。国名はむしろ、それらのモデルとあまりにも直接的に結び付けられてしまうことを避け、海洋国家としての性質を強める方向で機能しているように思われます。

 

 

なお、ユーラシア大陸都市国家等と名前が重なっている例は他にもあります。たとえばイタリア半島コムーネの一つにカンパーナという街があります。ルメリアナ大陸にも全く同名の街があり、イタリアのそれと同様、鐘をシンボルとしています。モデルであった可能性はあるでしょうが、知名度からして、読者がモデルを想起できる可能性は低いでしょう。

おそらく同様の事例は他にもありそうですが、調べ上げないとユーラシア大陸の関連する地名を突き止められないようなケースでは、作品・読者間のコミュニケーションを期待できません。

調べ上げないといけないというのはあくまで私の場合ですが、私は日本生まれの日本育ち、使用言語は日本語で世界史・世界地理の勉強は高校までです。おそらくさして特殊な読者ではないと思いますので、私を基準としてもそう大きくは誤らないのではないだろうと思われます。 

カンパーナのような事例は、もしかしたら作者にとってはモデルであったかもしれません。しかし読者がモデルとして想起することまでは期待されていないものとみて、上記のケースとは区別したいと思います。

 

 

地名と言語の体系

つづいてさきほど見た以外の地名について考えていきます。

将国のアルタイル』中に登場する地名の中には、「花の都」を「フローレンス」とよむように、漢字表記で示された国名の意味と、ルビで示された言葉の意味とが対応している場合と、そうでない場合があります。

ここでは、対応している場合の諸例について、もし仮にユーラシア大陸の言語の体系に位置づけるとすれば、どの言語に近いと考えられるのかを列挙してみました。

ただし、作中設定されているすべての地名をあげていてはきりがありませんし、『将星の書』のみに公開されている情報をみだりに公開するわけにもいきませんので、本編中で多少なりとも登場した地名を中心に掲げたいと思います。

 

------------------------------------------------------------------------------------------------- 

トルキエ将国・四将国

  • トルコ語……金色の町(Altin)、砦の町(hisar)、宝石の町(Mücevher)、東の町(şark)、港の町(Liman)、イェニ・トゥグリル村
  • 目下不明…… 草原の町、奇岩の町

 

※トルキエで使用される言語はトルコ語に近い(例:大将軍(Büyük Pasha))

 

東ルメリアナ・ウラド

 

※チニリで使用される言語は不明

※ウラドで使用される言語はスラブ語派の何か(例:大臣(voivode))

 

央海

  • イタリア語……西風の都(Ponente)、島の都(Isolani※)

 

※島民(isolano)の複数形。違うかもしれません……

※ポイニキアで使用される語彙はギリシア語(例:投票(ecclesia))、ラテン語(例:市長(Ceaser))に近い。

※ヴェネディックで使用される語彙はイタリア語に近い(例:元首 (Doge))

 

クオーレ

  • イタリア語……クオーレ(Cuore)、山猫団(Lince)
  • 不明……小川の都(11巻59話でArnoと綴られる:イタリア半島のアルノ川と関係あり?)

 

※フローレンスで使用される語彙はイタリア語に近い(例:大統領(Gonfaloniere))

 

南ルメリアナ

  • イタリア語……岩の都公国(Scoglio)、天上の都(Cielo※)
  • スペイン語……乙女の都 (Niña)、タウロ市(Tauro)、剣の都(Espada)、煙の都(Humo)、砂丘の都(Dune)、風見鶏の都(Veleta)、森の都(Bosque)、人魚の都(Sirena)歌の都(Cantar)、塩の都(Sal)
  • 上記のどちらか……鐘の都(Campana)
  • 不明……紋章の都(カタカナ表記はセルラント、11巻59話でSeallant……封印……?) 

 

スペイン語も同じ綴りだが発音は「シエロ」に近い

 

バルトライン帝国

※ライン地方の都市・国家には右肩に*を付す

  • フランス語……城壁の都(Mur)、南領(Sud)、春の町*(Printemps)、旧カミーノ王国領山羊の町*(chèvre)、幹の町*(tronc)、信仰の都*(religion)、百足の王国*(Mille-pattes)、薔薇の王国*(Rosier)、白の王国*(Blanc)、石工の町*(Maçon)、猪の町*(Sanglier)木綿の町*(Coton)、喉の町*(Gorge)、粘土の町*(Argile)、温泉の町*(Source therimale)
  • ドイツ語……聖ミヒャエル(Michael)、吹雪の街(Schneestrum)、赤蛇山(ロット・ベルク、Rote Berg?)、物語の王国*(Erzählung)、風の町*(Brese)、藪の町*(Dickicht)、第三の町*(Dritt)、
  • 不明…… 蔓の町*(15巻81話よりカタカナ表記はマルセン、フランス語sarmentの音位転換の可能性あり?)、針の町*(針はドイツ語でNadel、ドイツ語でNagelは爪)、赤蛇の教団

 

※帝国で使用される言語はドイツ語に近い(例:旧貴族(Junker)) 

 

 -------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 

本編中に登場した地名については以上です。さらに、ここでは公開を控えますが、『将星の書』所載の地図をもとに他の国家についても調べてみました。

 

その結果、クオーレの都市国家名はほぼすべてイタリア語に近いものだと確認できます(stagno,piuma,randa,ferita,brezza,marmo,piazza,pianura,viticcioなど)。「ほぼ」といったのは、「愚者の都」のみ今のところ確認できていないからです。喜劇等の役どころにこのような名前があるのではないかと思って探してみたのですが、未見です。

一方南ルメリアナについては、一部を除いてスペイン語に近いようです。本編中に大きく登場していない国については、井戸の都(Pozzo)がスペイン語・イタリア語の両方に近い以外、みなスペイン語系の国名でした。

 

バルトライン帝国ではフランス語に近いものとドイツ語に近いものが混在していますが、バルト地方はドイツ語に近いものが多く、ライン地方は多くがフランス語系で一部ドイツ語に近いものもある、という分布のようです。首都である聖ミヒャエルがドイツ語に近く、それを守護する城塞都市ミュールがフランス語に近いあたりからみても、ドイツ語系はフランス語系に優位にたつ傾向は認めてもよいのではないかと思われます。

 

 

このように、言語的分布と文化・行政的境界は、比較的きれいに重なっていることがわかります。

ただしそもそも、『将国のアルタイル』が舞台とし、作中の人物が生きているのはルメリアナ大陸です。その大陸の文化にどれほどユーラシア大陸と共通する部分があろうがなかろうが、作中の人物たちにとってはおよそ関わりのないことでしょう。

彼らはヨーロッパ州のことなど知りませんし、自分たちにモデルがあるという自覚もありません。モデル設定というもの自体が、作品の外側にいる人間(読者等)にのみ提示された情報であり、意味のあることです。 

 

したがってクオーレとイタリアを重ねるときには、作品の外側の情報(ユーラシア大陸の情報)と作中の情報(ルメリアナ大陸の情報)という次元の異なるものを重ねるわけですから、相当の注意が必要です。ここまででしつこく「ドイツ語に近い」というような言い方をして、「ドイツ語だ」とは断言しなかったのもそのためです。

 

今はひとまず、上記のまとめはあくまでもルメリアナ大陸の諸国家の文化的な近さをはかるための指標として用いたいと思っています。ルメリアナの地名とユーラシアの土地を比べるのではなく、ルメリアナの土地同士を比較するための目印として、ドイツ語に似ているか、フランス語に似ているか、ということを考えてみるわけです。

 

その結果、まず言えるのはクオーレの中での文化的同質性の高さです。確認できない一例を除いてすべてが同じ特徴を持っています。セントロとクオーレの間も近いといえるでしょう。

クオーレと南ルメリアナのあいだは文化的に遠いわけではないのですが、全く同じとはいかないようです(そう思えば、チェロ戦役のときのヴェネディックに対するチェロの人々の反応にも少し合点がいくところがあります)。

 

バルトラインにおいてはバルト地方の征服民とライン地方の被征服民が文化的に同質でないことを確認できますが、一部のライン地方の国家はむしろバルト地方に近いようです。ドイツ語系のライン地方の国家はバルトラインの侵略以前からそうだったのか、それとも侵略の結果かつての文化が残らず、侵略者の文化に同化したのか、あるいは報酬と見張りを兼ねてバルト地方の功労者に与えられた遠隔の領地なのか、さまざま考えられますがわかりません。

ユーラシア大陸においては、アルザス地方が古来フランスとドイツの間の要衝として、幾度となく戦火にさらされてきました。19世紀、一時ドイツ帝国領となり、第一次世界大戦後フランスに帰属することになったロレーヌ地方も、住民はドイツ系が少なくないと言います。もしかしたらバルト地方とライン地方の境界もあいまいなのかもしれません。

 

以上みてきたことは、さして目新しいことではないでしょう。だいたいは、人物たちのせりふ等によって十分に示されてきたことです。

とはいえ、せりふ等によって明示的に示されてきたことと、国家や都市の命名の方法という、暗示的な表現方法が連動していることは確認できます。これは、もちろんそうやすやすと行えることではなく、徹底した世界観の作り込みがなくてはなしえません。

そしてなおかつ、国家や都市の命名方法に明確な法則性が見いだせるとなると、そこから例外的な事例に注目することができます。もともと法則性がないのであれば、多少気にかかることがあっても「そこまでは考えられていないんだろう」と済まされてしまいます。しかし、以上のような法則性と作り込みを認めることができるならば、例外的な事例に着目する意味が出てくるわけです。

そこで今回は、さらに2、3、現時点で気になっていることを述べておきます。

 

 

小考①地名と古態

まず注目したいのが、銀色の都(アルギュロス)と岩の国(スコグリオ公国)、天上の都(チェロ)です。アルギュロスはギリシア語に近い名前を持っており、他に類例がありません。スコグリオとチェロは周辺の南ルメリアナがスペイン語に近い中、例外的にイタリア語に近い名前を持っていました。

地図で位置を確認しておきます。チェロとスコグリオがクオーレと似たイタリア語に近い名前を持っていたというのは、飛び地的な分布であることが確認できます。

 

f:id:asobiwosemuto:20200731124840j:plain

14巻冒頭の地図

 

スコグリオ公国は古代ポイニキア帝国の「原初期の統治体系を今に受け継ぐ」(10巻52話)国です。具体的には「千二百年の昔――ポイニキア皇帝より拝領した」(10巻50話)という歴史を持っていました。

この千二百年という時間は、実はチェロの歴史でもあります。

 

f:id:asobiwosemuto:20200825194512j:plain

12巻60話より

つまりチェロとスコグリオという、古代ポイニキア帝国時代に遡る歴史を持っていた国が、南ルメリアナの中にあってもイタリア語に近い名を持っていたわけです。古代ポイニキア帝国誕生の地を自認するクオーレ地方も、ほぼすべてイタリア語系の名前を持っていました。南ルメリアナの中でも古代ポイニキア帝国時代の名残を比較的よく留めている国は、イタリア語に近い言葉を用いているのではないかと想像されます。

日常語は時代がうつろうにつれて変わっていきますが、国の名前というものは統治体制が変わらない限りなかなか変化しません。そう考えると、国名がイタリア語に近いチェロで、日頃用いられている言葉がスペイン語に近いことにも納得がいきます。

  

とはいえこれはなかなかあやうい想像で、仮説の域を出ません。

論理的に考えて、歴史の古い国がイタリア語系の名前を持っているということは、逆、すなわち「イタリア語に近い言語を用いていることが歴史の古さの現れである」ということとイコールではありません。上に述べたことは、あくまでも帰納的に類推したことでしかないのです。

ただ、チェロとスコグリオは作中重要度の高い国であり、南ルメリアナの周辺国家と比べても注目されることの多かった国です。その2国の名前に他とは違う特徴があったということは、やはり看過できません。私の考えが妥当であるかどうかはともかく、事実としてチェロ、スコグリオがスペイン語系の名前ではないということは書き留めておきたいと思い、記事にしてみました。

 

 

続いてアルギュロスに目を向けたいと思います。アルギュロスは「ポイニキア帝国が百年を費やし湾を削り河川を繋いで南北へ貫通させた巨大運河」に面していました(8巻37話)。その百年というのがいつ頃のことだったのかはわかりませんが、とにかく帝国があり、しかも大規模な土木工事を完遂する国力とニーズがあった時代なのですから、チェロ・スコグリオの成立より後ということはないでしょう(チェロは「帝国の終末期」の建国です)。

そして、運河ができたからには、運用する人々が集まり、沿岸に都市を形成したはずです。アルギュロスにどのくらいの歴史があるのかは作中描写がありませんが、相当に古い都市であった可能性も残ります。

 

そう考えたくなるのは、アルギュロス同様、ギリシア語と深いかかわりを持っている国に燈台の都があるからです。

ポイニキアという国の名前そのものについては詳しく検討しませんでしたが、ciを「キ」と発音していることから、古典式ラテン語ギリシア語などに近いのではないでしょうか。少なくとも、イタリア語・スペイン語・ドイツ語・フランス語の発音ではありません。そしてポイニキアでは、ギリシア語・ラテン語に近い行政用語が今も使われています。

 

ギリシア語ないしラテン語系の名前を持つ国家はこの二例だけですので、説得力のある考察は困難です。

ただ、燈台の都の尚古趣味が、服飾等の描写からも印象的に描かれていたことを考えると、本作において、ギリシア語・ラテン語系の名前が歴史を感じさせる効果を持っていると捉えても、あながち無理はないのではないかと思います。そもそも、読者はこの地球に生きている人間なのですから、ギリシア語・ラテン語というのはヨーロッパの古代帝国で用いられた言葉であると知っている人も少なくないはずです。制作陣もその効果は織り込み済みでしょう。

 

 

ただもう一つ、ギリシア語から連想されることもあります。ギリシア正教会です。

正教会ギリシア以東、特にロシア周辺に広まったキリスト教の一派です。ロシア正教会の教会では、積雪を防ぐために玉ねぎ状の屋根が築かれました。これによく似た特徴を持つ建物が、アルギュロスにもあります。やはり宗教性は抜かれていますが、形態上の類似は明らかです。

f:id:asobiwosemuto:20200829124619p:plain

8巻37話よりラフモノフの館。かわいいたまねぎドーム

そう考えるならば、アルギュロスがギリシア語に近い名前であるということは、ポイニキアとの同質性を示すものではなく、東ルメリアナの地域性を示すものなのかもしれません。

もし、東ルメリアナの国家のことがもう少し描写されれば詳しくわかるのですが、今はここまでです。

 

 

小考②語り手の目線

続いて、もう一度モデルを想起させる名前……トルキエ、バルトライン、チニリ、ヴェネディック、フローレンス、ポイニキアの六国の名に、目線を戻してみたいと思います。

 

これらの国々のうち、トルキエではトルコ語に近い言語が日常的に用いられており、国・民族の名前もそれと同じ言葉だろうと思われます。

バルトラインの「バルト」「ライン」は地域の名であって、何か特定の語義を持つ言葉ではないようなのですが、「帝国」にあたる部分は作中empireと綴られていますから、やはり国の名前と行政等で使用される言語が同じものだと理解できます。

ポイニキアはすでに言及した通り、国の名前にも用語にもギリシア語ないしはラテン語に近い言葉が使われています。

 

問題は、残るチニリ、ヴェネディック、フローレンスです。

チニリ(大秦)はおそらく中華帝国をモデルとする国です。使用言語はわかっていませんが、作中、チニリ人の邸宅に「囍」字のようなものをモチーフとした調度品が見えます。順当にいけば中国語に近い言語、漢字に近い文字を用いているのでしょう。紋章の中にも、「大秦」の字が見えます。

 

f:id:asobiwosemuto:20200825233229j:plain

8巻39話よりワン・イーシン老師の邸宅

 

f:id:asobiwosemuto:20200825233155j:plain

8巻39話扉絵より

ただし、「大秦」の二文字を「チニリ」と読む言語は、中国語に近いとは言えません。中国語は上から順に読んでいく言語ですが、「大」の字が、「チ」「ニ」に似た音を持ったことは、筆者の知る限りどの時代にもなかったはずです。

 

よりはっきりしているのがヴェネディック、フローレンスです。

両国の行政用語等に用いられている言葉はイタリア語に近いものです。それにもかかわらず、肝心の「ヴェネディック」という国名は、イタリア語の語彙にはありません。「フローレンス」という国名も英語等に近いもので、やはりイタリア語からは遠いはずです。

 

「日本」と「Japan」のように、自称と他称がずれることはよくあります。あるいは日本語話者が英語では I am from Japan と名乗るように、別の言語の話者に対して、他称にあわせた国名を用いることもよくあります。

しかし作中ではチニリ人同士の会話、ヴェネディックの民同士、フローレンス貴族同士の会話でも同じ国名が用いられます。フローレンスの人々は、イタリア語に近い言葉を行政等の用語として日常的に用いつつ、国名は英語に近い言葉で名乗っているわけです。チェロのような理由があるならば日常語と国名に用いられた言語の体系がずれていても不思議はないのですが、フローレンスは古来の文化的伝統を誇りとしている国ですから、少し気がかりです。

 

この不思議な現象を、どのように捉えることができるでしょうか。

 

そう考えてみて先程引用した大秦のつづり(Çinili)を調べたところ、どうやらチニリとはトルコ語で「中国人」を意味するようなのです。さらに同じく調べると、ヴェネチアトルコ語でVenedik、フィレンツェトルコ語でFloransaでした。トルコ語に詳しい読者の方なら自明だったのでしょうが、私は少なからず驚きました。

トルキエの行政用語は、トルコ語に近い言葉でした。そして今みた三つの国の名も、トルコ語に近い言葉でした。このことはつまり、「ヴェネディック」「フローレンス」「チニリ」という言葉が、トルキエで用いられている言語の語彙であることを示唆します。

 

もともと激しいトルキエ嫌いだったフローレンスの人々が自らを称する名前が、実はトルキエの言語の体系の中にある言葉だった……そんなことがありうるでしょうか。大陸の文化の中心を自負している国が、自分たちの国の名前はよその言語である、などということに耐えられるでしょうか。

 

そう考えていて、筆者は語り手――物語の中の世界と、外側の読者の間を仲介する者にゆきあたりました。

将国のアルタイル』には、目立ちませんが語り手(ナレーター)がいます。いわゆる「神の視点」に近い、ほぼ第三者的な視点で物事を語っているようです。

 

しかしどれだけ第三者的な語り手であったとしても、言語はどれか一つを選んで語らなくてはなりません。人は複数の言語を同時に話すことができないからです。

そしてもし、語り手が選んだ言葉がトルキエの言葉だったのだとしたら、ヴェネディックやフローレンスがトルコ語に似た言葉で呼ばれていたことに理屈は通ります。物語全体がトルキエの言葉に翻訳され語り直されてたと捉えられるわけです。ヴェネディックの市民同士の会話であっても、物語の中ではすべてトルキエの言葉で語られる仕組みです。 

 

たしかにヴェネディック、フローレンス、チニリはルメリアナ大陸の中の実力国です。その国名がトルキエの語彙の中に定着していても不思議ではありません。

さらに類例を探していくと、バルトライン帝国の新貴族であるジャック・ジョルダンなどが、ザガノスを「ザガノス将軍(パシャ)」と、トルキエの言葉で呼んでいる場面などがあります。

f:id:asobiwosemuto:20200829160317p:plain

18巻96話より新貴族ジャックの言葉


 日本語は近代以降の固有名詞について原音主義をとりますから、「グルジア」を「ジョージア」とは呼びません。しかしそんな文化にあっても、メルケル首相のことは「めるけるしゅしょう」と呼びます。Bundeskanzlerとは呼びません。このジャックのように、肩書についてまで現地の言葉を尊重するというのは、少し珍しく映ります。

しかしこれも、語り手がトルキエの目線から見て、トルキエの言葉で語っているとすれば、すべて解決してしまうのです。

 

もしこの推論があたっているならば、『将国のアルタイル』はあくまでもトルキエの立場から語られた物語だということになります。どれだけ語り手が公正な態度を貫いたのだとしても、言語はその文化の価値観やものの見方と不可分です。蛾と蝶を区別しない言語の中で生活しながら、両者を区別することは困難ですし、虹を七色に分ける言語の中で生きながら、虹の色を二色だと捉えることもまた難しいでしょう。

 

 

上記の推論は、ルメリアナ大陸に言語が複数あり、ヴェネディックやフローレンスのそれがトルキエとは異なっていることを前提にしています。詳しくは別記事で述べたいのですが、この前提は客観的に正しいかどうか検証できません。つまり私はここで、不確かな推論の上に推論を重ねる愚を犯しています。

 

さらに筆者はこの問題を扱いかねて、文学研究等でのセオリー通りに、語り手というものを真面目にとらえています。本作は漫画ですから、読解にあたって文学と全く同じ方法論をとれるとは限りません。語り手に対してあまり統一的な振る舞いや人格を求めると、意味のないところに意味を見出してしまう失敗に陥ってしまいそうです。作品の外側の事情から、「ヴェネディック」「フローレンス」という名前が採用された可能性も十分あるはずでしょう。

 

しかし、「ヴェネディック」「フローレンス」「チニリ」の三国の呼称が他とは異なる特徴を見せていることは、たしかな事実です。

さらにヴェネディックという国名は、もう一つの点でも西ルメリアナの国々と異なっています。「海の都」という漢字表記での名前と、ルビにより示された「ヴェネディック」という音のあいだに対応関係が見られないことです。

「フローレンス」という音と、「花の都」の「花」という言葉は対応しています。「○○の都」「○○の町」と表記されている場合、このような連関を見いだせる場合が圧倒的に多く、例外はヴェネディック(海の都)とポイニキア(燈台の都)しかありません。

 

今現在筆者は、これらの特異な事例を処理するだけの十分な力を持ち合わせていません。そもそもの話、アルギュロスの場合が顕著だったように、言語文化に関しては考察材料とできるだけの情報が示されているわけでもありません。しかしこれから先も考えてゆけば、新しい解釈の可能性が見つかるかもしれませんし、筆者が見落としている描写に気がつくことができるかもしれません。あるいは今後の展開次第で、有力な情報が示されるかもしれません。

今回はただ仮説を並べただけになってしまったのですが、楽しみに続刊を待ちつつ、考え続けてゆきたいと思います。